俺論

・「生きがい」ではなく「死にがい」を考える

生き様ではなく死に様を、死に際を。

人間、
死ぬという出来事に対しては皆、平等に訪れる。

絶対的に平等なのだ。

しかし、
人は平等ではない。

産まれてきたときから、
人によってスタート地点が違うのだ。

スタート地点は選びようがないのだ。

生まれも運も才能みたいなもんだ。
嘆いても恨んでも、しょうがない。

いかなる天命も甘んじて受けなさい。

だが、
死については、
ゴール地点を
人間が自由に選ぶ事ができる。

人間の一生とは
生き甲斐ではなく、
その死に様をいかにすべきかを
追求する過程に他ならない、
と俺は思う。

一つしかない命を
如何に使って、
如何に死ぬかということにあると思う。

生き甲斐ではなく、
このためなら死んでも構わないと
思えるような死に甲斐、死に方を求め、生きるべきなのだと私は思う。

あえて言い方悪い表現しますけど、
サムライなんてのは
農民などの庶民から、
普段は搾取して、
威張って暮らしているわけじゃないですか。

どこが
庶民と違うかってのは、
いざ自分らの国が危機になった時に、
主君のために、
その国を守るために、
潔く死ねるかどうかってところにあるんですよ。

それがなかったら、ただのクズですよ。

何か作って何か売るわけでもなく、
エラそうに生活してるんですからね。

でも、
それがあるからこそ、
そこに「美」が入り込む余地が生まれてくるわけですよ。

ホントに紙一重で、
天か地かの差ですよ。

ワシズム読んだときに書いてあった事だけど、

サムライってのは、
自分の一つしかない尊い命というものを
どこでどのように使ったら、
侍らしい生涯をまっとうできるかを、
侍たる者、物心ついたときから
誰もが追求していた。

と。

まさに
俺もそういう風に、
生きて、死にたい、と思う。

どうやって生きれば幸せになれるか

という命題に行き詰ったら、

死ぬ時に、
どうであれば、悔いはないか。

を考えてみてはどうか。

ページ上に戻る

inserted by FC2 system