俺学

・関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実 工藤美代子/著 より抜粋

「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」は、

関東大震災において、

「世間で言う朝鮮人虐殺」がなかったと証明する書物である。

その中から、
主なものをざっくり抜粋したので、
この事実が周知されていけばと思っています。

もっと深く知りたいという方は、
工藤さんの、この書を購入して頂ければと思います。

P106~114

虐殺の事実認定に日本人の「罪意識」を持ち出したという意味では、
吉野作造が当時唱えた筋立てに依拠し倣ったものだ。

そこに、
日本人が戦後六十年以上を経過して
なお変わることのない「自虐意識」を持ち続けることになる素因が潜んでいる。

吉野論文には論理の飛躍がある。

破綻といってもいい。

朝鮮人が犯した小さな犯罪や、
彼等の性向をことさら日本人が拡大して恐れおののいた結果が
あの「流言蜚語」を生み、
「虐殺」へつながったのだという筋書きで成り立っているのだ。

だが、
そんな瑣末で、
些細な事象から事件が発生したわけではない。

事件発生の実態は後述するが、
ここでは差しあたって吉野作造の詭弁に近い論調を紹介しておきたい。

「鮮人暴動の流言の出所に就き、親交ある一朝鮮紳士よりこんな話を聞いた。
横浜に居る朝鮮人労働者の一団が、震火災に追はれて逃げ惑ふや、
東京へ行ったらどうかなるだらうと、段々やって来た。
更でも貧乏な彼等は、
途中飯に迫られて心ならずも民家に行って食物を掠奪し、
自らまた多少暴行も働いた。
これが朝鮮人掠奪の噂さを生み、
果ては横浜に火をつけて来たのだろう、
などと尾鰭をつけて先きから先きへと広まる。
かくして彼等の前途には警戒の網が布かれ、
彼等は敢無くも興奮せる民衆の殺す所となつた。
飢餓に迫れる少数労働者の過失が瞬く間に諸方に広がって、
かくも多数の犠牲者を出だすに至つたのを見て、
我々は浩然自失するの外はない」
(「中央公論」大正十二年十一月号)

「鮮人労働者の一団」が貧乏だからといって
民家に押し入るのを「心ならずも」だとかばい、
「掠奪し」「多少暴行も働いた」のが
「尾鰭をつけて」事件が拡大したのだと博士は述べる。

だが、
たとえ貧しくても、
他家へ暴力をもって押し入れば
それは日本では強盗というのである「掠奪の噂さを生」んだのは
至極当然ではあるまいか。

この一例をとってみても、
当初、警察が発した「鮮人襲来」の報は決して間違いではなかったといえる。

さらに別の件に関しても吉野は次のように日本人の過剰反応をいいつのる。

「よし(注・暴動・放火など)あったとした所が、
あの位の火事泥は内地人にも多い。普通ああ云ふ場合にあり勝活の出来事で、
特に朝鮮人が朝鮮人たるの故を以て日本人に加へた暴行と云ふ訳には行かない。
況んや二三の鮮人が暴行したからとて
凡て(すべて)の朝鮮人が
同じ様な暴行をすると断ずる訳には行かぬではないか」(前掲誌)

要するに放火や暴行があったからといって、
日本人だって同じ事をすることがあるのだから、
朝鮮人だけが日本人を狙ったことにはならない、というのだ。

博士の一般朝鮮人への配慮は分かるとしても、
震災のさ中に
日本人が暴行、掠奪、強姦などをした例は皆無に近い。

絶無とはいえないにせよ、
戒厳令が布かれ自警団が日本人へも同じように目を光らせて警戒に当たった。

自警団は何も朝鮮人や中国人だけのために組織されたわけではない。

日本人はお互いが可能な限り助け合い、
この末世(まっせ)の災厄を通過したことを忘れてはならない。

吉野作造の調弁としかいえない例をもう一件紹介して先に進みたい。

「仮令下級官憲の裏書があったとは云へ、
何故にかく国民が流言を盲信し且つ昂奮したかと云ふ点である。
多数の奉公人を使ふ一家の主人が、
或る一人を非常に虐待したとする、
虐待されても格別反抗もしないので、
平素は意に止めなかつたが、
その中図らず放火するものがあって、
家が全(ま)る焼けになったとする。
此時誰云ふとなく火を放けたのはその男だと云ふものがあると、
人々が悉く成程と信ずるに相違ない。
そは平素は意に留めなかつたが、
彼は平素虐待されて居る所から、
必ずや主人を恨んで居った筈だと、
各々の心が頷くからである」(前掲誌)

虐待する主人が日本人で、
火付けを疑われた奉公人を朝鮮人になぞらえるこの図式的な比倫こそ
非論理的で吉野作造とも思えない。

 

  「自警団」は自衛組織

自分の住む町内は可能な限り自力で守るという伝統は、
長い間我が国の慣習であった。

「自身番」と文字通りいうように
町人の中から選ばれた者が治安維持にあたる自衛組織である。

江戸市中警戒のための庶民の知恵として、
「番所」という詰め所も設置された。

関東大震災時に作られた自警団も
そもそも朝鮮人の襲来に備えたものではない。

町内の平穏な日常を守るために各所で結成されたものである。

「火事場泥棒」のような輩は遺憾ながらどこにも起こりうる犯罪で、
そうした犯罪から各戸を守り、
さらには余震などの心配から二次災害の危険を食い止めねばならなかった。

九月一日午後、
震災発生直後から自警団が改めて強化された。

消防関係者、
成年男子、
トビ職などが
在郷軍人を主軸におくなどして各町内で次々に武器の調達を開始した。

竹槍、
鳶口(とびくち)、
棍棒、
日本刀、
荒縄などが用意され、
暴漢への対策が講じられたのだ。

火焔渦巻く一日の夕刻、
彼等は自分たちの町内への延焼や
火事場泥棒、不良行為などから家族を守るべく
鉢巻を巻いて夜回りの当番などを決めていた。

牛込柳町で自警団を組織した関係者の発言である。

「『今夜当り、ドサクサにまぎれて盗賊が横行するかも知れない』とか、
『放火がありはしないだらうか』との疑ひが浮んだ。
地震の恐ろしさに、
どこの家でも、家族は、悉く戸外に避離してゐたのだ。
かうして、盗賊跋扈も放火も想像するに難くはなかつた。
ソコで、期せずして、心ある人々は、町の入口へ出張して、
警固の任に当つた。
町会や青年団の成立してる町では、
それらの幹部が夜警をすすめたのであったが、
さう云ふ機関のない所では、
全く誰れの布令もなかつたので、自発的に起つたのであった」
(「太陽」大正十二年十月)

そこへ一挙に事態が急変するような情報が入ってきた。
これまでみてきたように、
横浜で「鮮人襲来」が発生し、
それが東京へ急速に流れ込んでくる、というものである。

この情報が決して「流言」でも「蜚語」でもない真実であることは
既に具体例を示して述べた。

再び吉村昭を引けば、
自転車に乗った男が「流言」を撒き散らしながら
荏原郡一帯を恐怖に陥れたのがきっかけだと述べている。

「『不逞朝鮮人の集団が三隊に分れて六郷川を渡って来襲してきたが、
その中には銃を肩にしている者もいる』とか、
『道路沿いの井戸に毒薬を投げこんでいる』という風説も流れた。
これらの流言は同郡内の各町付を大混乱におとしいれ、
雨戸をしめて閉じこもる者もあれば、避難準備をはじめる者もいた。
また男たちは、
手に手に竹槍等をかざし半鐘を乱打して警戒に当たった。
通報を受けた大森警察署では、
電信電話が杜絶しているので状況をたしかめることができず、
署員を六郷方面等に放って偵察させた。
が、風説を裏づけるような事実はなく、
それが悪質な流言にすぎないことを確認した」

しかし
そんな甘い偵察で襲撃の実態が分かるわけがないとして住民は納得しなかった。

警察官は抗議の住民に取り囲まれ、
「なにをそんな悠長なことを言っているのだ。目撃者が数多くいる。
そんなのんきな事を言っていて警察官が勤まるのか」
と罵倒されたというが、怒るのは当然である。

先に紹介したように、
吉野作造が信頼する「朝鮮紳士」でさえ「飢に迫られ」た朝鮮人の一団が暴行、

掠奪を行ったと告白しているではないか。
こうした一団が、次から次へと多摩川を超えて東京市内へなだれ込めば、
騒ぐなというほうが無理である。

かくして、
自警団は二日に入ると一層強硬手段をもって
朝鮮人の潜入に備えるようになった。

これを「自衛」という。


   死体の分別

自警団が設けた関所が出来たため、
町中を歩いていた朝鮮人、
もしくはそれとおぼしき人物は片端から誰何され、
抵抗する者は殴られたり、
暴行を受けたり、
警察へ連行され、
そこで厳しい尋問を受けるなどした。

中には激昂していた自警団のために殺されなくてもいい命が
失われた例がないとはしない。

不幸な朝鮮人が皆無ではなかったことは事実として確認されるべきであろう。

ここでは、
そうした死体が殺人行為なのか、
震災の結果なのか
極めて判断しにくい死体が多いことを示すサンプルを引いておく。

一般の朝鮮人が覚えたであろう恐怖についても
十分に理解できるケースの一つだろう。

「私は一九二三年、二十二歳の時に日本へ渡った。
八月下旬になると土方仕事をすることになった。
九月一日、私は仕事を休んでいた。
地震が始まり地獄絵図の中の夜を迎えることになったが、
私は知り合いの人達と釜や米を持って荒川の土手に避難した。
私たちはこの時十三人(婦人八名)でいましたが、
八時頃日本人たちは津波がくるといって大騒ぎを始めました。
消防団、青年団が一緒に来て、私達の身体検査を始めました。
検査をしながら『小刀一つ出てきても殺すぞ』と脅かした。
だが、
私達の中から小刀一つ出てくるわけがなかった。
そのうち縄を持ってきて、
私達十三人をじゅずつなぎに縛り上げ、
『少しでも動いたら殺すぞ、このまま待っていろ』と
彼等は土手に私達十三人を残したまま去って行った。
夜も更けて雨がしとしと降り出した。
十二時頃になると、橋の向こう側で激しい銃声が聞こえてきた。
しかしそれが何の音であるかは分からなかった。
夜が明けて五時頃になると、
鳶口(とびくち)を手に手に持った消防団員八人が
『云う通り動かずにじっとしていたから命を助けよう、
警察へ行けば大丈夫だから。ここにいたら殺されるぞ』などと云った。
これを聞いて、夜中に聞いた銃声が何であるのか分かった。
ここで初めて朝鮮人虐殺の事実を私達は知ったのである。
自警団は夜が明けてから朝鮮人と分かれば、
片端から鳶口や日本刀で虐殺し始めた。
橋のたもとに来るとそこは死体で足の踏み場もない位であった。
これらの死体は全部朝鮮人の虐殺死体であった。
十四日目には将校が来て
『明日は干葉へ行かねばならない。
そこへ行けば三度の飯が保証される』と告げた」

だが「銃声」と「虐殺」が一致する確たる資料は示されないのだ。

「私達十三人」の朝鮮人は保護された。
片や「虐殺された」朝鮮人もいた。
「虐殺された」朝鮮人がどのような素性の人々だったかは、
ここでは何ひとつ触れられていない。

   いまそこにあるテロ

日本人にとっても、
貧しくとも真剣に汗を流して働いていた在日朝鮮人にとっても
この大震災は不幸な出来事であった。

再三述べるが、
無事の朝鮮人が命からがらの目にあわざるを得なかった例が
少なくないことは承知している。

生死を境とした恐怖心をはらむような状況が各自警団側にはあったのだ。

それは既述のように「鮮人襲来」が真実だったためである。

やや過剰といわれても、
町内と家族の身の安全を最優先に考えて怪しき振る舞いの朝鮮人を難詰し、
相手が反抗したり逃げ出したりすれば暴力沙汰になっても
これを押さえ込むのは自衛上やむを得ない処置だ。

そうでなければ、
組織的な主義主張をもって
日本を大混乱に陥れようとするテロリストたちに組み伏せられ、
町内の破滅は国家の破滅へと進んだに違いない。

一方で末世の地獄とも思える大震災、大火災の打撃を受けていた
市民と自警団にも心理的な混乱は起こっていただろう。

だが、
それももとを質(ただ)せば社会主義者と抗日民族主義者が共闘し、
上層部からの指令を受け、
天災に乗じ思いを遂げようとした輩がいたからだということを
忘れてはならない。

被害者は日本国民と大部分の無関係な朝鮮人生活者だったのだ。

三河島で花火工場を襲撃した朝鮮人一団に遭遇し、
その恐怖の体験を語った人物の記録を見てみよう。

「時刻は二日の午前一時か二時頃である。
徹宵して空腹と疲労を忍で日暮里の親戚を尋ねたが日暮里の半分は消滅してる。
已むなく南千住から三河島に落延びた。
同地方は火災はなかつたが新発展地で
新築家屋も建築中の家屋も将棋倒しとなっていた。
私どもは三河島字町屋七二一の標札のある潰家に陣を取り休憩し、
正午頃やつと食事に恵まれた。
同夜十二時頃、鯨波(とき)の声がするのでビックリしたが
南千住一帯を巣窟とせる鮮人団が
三河島附近の煙火(はなび)製造場を夜襲して火薬類を強奪し、
婦女を凌辱し、食糧軍資金を掠奪するというので、
在郷軍人、青年団が決死隊を組織し警戒中であると聞き、
私どもは非常に恐怖し、
妊婦を伴れて同夜は田圃(たんぼ)の中に露宿して難を免れたが、
仙台から青森に避難すべく日暮里に引返す途中二人の鮮人は撲殺され、
一人の鮮人は電線に縛られ半死半生の体であった。
また附近の墓場には粉飾賤しからぬ年増婦人が鼻梁をそがれ出血甚しく、
局部にも重傷を負ひ昏倒してゐたが、
七八人の鮮人に輪姦されたという事で地方の青年団は極度に憤慨し、
鮮人と見れば撲殺し、追撃が猛烈であった。
鉄道線路は軍隊で警戒し、
その通路を安全地帯とし仮小屋を建て、
避難してゐるものが無数で、何れも鮮人の襲撃を恐れたためである」

「鼻をそぐ」というような残酷な行為は
日本にはなかった蛮習であるという事例は前にも述べた。

P118~121
不審火 I
東京市の焼失面積は全市の四十四%、およそ五割が灰燼に帰したことになる。
午前十一時五十八分の一回目の強震に続く余震は
体感レベルで総計九百三十六回に達した(中村精二理学博士)という。

余震が火災を引き起こした例がなくはないだろう。
だが、
果たしてそれだけで東京の半分が焼失するものかどうか、
当時の市民も目を疑ったに違いない。

大火災は一日正午に始まり九月三日夕刻まで続いた。
実に五十二時間にわたって燃え続けたことになる。

その原因にはいくつかの悪条件が重なったためとされている。

例えば、
建造物が燃えやすいこと、
ビルもレンガなど崩れやすいものがあったこと、
地震によって水道管が破裂し消火能力が失われたこと、
昼どきで七輪などに火をおこしていたこと、
特に町中の飲食店では客に出す料理のため盛んに
火を使っていたことなどが挙げられている。

さらに、
延焼が食い止められずに火勢が衰えなかった原因としては
薬品類のためとしている。

なぜか。
学校、
試験所、
工場、
医院、
薬局などに保管されていた引火しやすい薬品が
棚から落ちて発火したのだと説明されている。

その証拠に、学校からの出火が多いと述べる関係書も多い。

確かに、
蔵前の東京高等工業学校、
富士見町の日本歯科医学専門学校、
市ケ谷の陸軍士官学校の一部、
東京帝大の工学部などからの出火があったのは、
そうした関係がなくはあるまい。

ところが、
出火場所には専門的な薬品など必要とするはずもない
女学校や小学校など多数が含まれていた。

かなりの区部が完全焼失するほど延焼している。

火災が九月一日の正午から夕方までに起きたことは地震との関連と理解できる。

出火は市部で百三十四カ所、
郡部で四十四カ所、
合わせて百七十八ヵ所にも及び、
どうにか消し止められたのは八十三ヵ所くらいだといわれている。

出火と同時に消防隊員や地元の町内会、自警団らの必死の消火活動によって
半分近くは鎮火させたが、
九十ヵ所以上の火災が強風にあおられ延焼した。

この日の風向は南風もしくは南東から吹いていた。
前夜来の台風の通過の影響から、
風と雨が交互にやってきては、
時に積乱雲が高くそびえるという荒れ模様の一日だった。

夕刻になっても一向に衰えない火焔が、
立ち上がる積乱雲を紅蓮に染め上げてゆく夕景を
多くの市民が呆然と見上げていたのだった。

さて、
南東方向から吹く風にしては風上にある所から思わぬ火の手が上がる、
それも一日夜から二日以降になって、
突然燃え始める事態に市民はようやくそれが放火によるものだと気がつく。

当然、自警団は朝鮮人の放火以外に考えられないと思うようになった。

そうした市民に確証を与えたのが新聞記事だった。

「不起鮮人各所に放火――帝都に戒厳令を布く――
一方猛火は依然として止まず
意外の方面20火の手あがるの点につき疑問の節あり、
次で朝鮮人抜刀事件起り、
警視庁小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約三十名は
五台の自動車にて現場に向かった。
当市内鮮人、主義者等の放火及宣伝等頻々としてあり」

二日の午後になって新しい火災が発生するということは常識では考えにくい。
罹災者は避難し、その後はもはや燃えるものは燃え尽きていたはずだ。
そうした不審火は市内各所から発生したが、
牛込や四谷、市ケ谷附近の発火はいかにも不自然な時間に発生しでいる。

多くは空家、
小学校、
印刷所、
商業ビルなどから発火したのだが、
いったいどんな可燃物が貯蔵されていたというのだろうか。

硫化リン、
硫黄、
赤リン、
マグネシウム、
塩素酸塩類、
硝酸、
過マンガン酸塩類、
黄燐、
ニトロ化合物、
それに純度の高いアルコールや石油といったところだ。

大正十二年の一般的な家庭や町内の小学校、
商業ビル等にそのような発火性の強い薬品が
貯蔵されていたとでもいうのだろうか。

風上に逃げたにもかかわらず、
不審火の発火のため一帯が火の海と化し、
落命した市民の数は知れないほど多い。

横浜で目撃されたように、朝鮮人の放火があったとされるのえんである。

P123~126

大正期に入って月島には
市営住宅が次々と建てられ、
増加する人口を吸収していた。

その市営住宅に火がついたのは避難民が入り始めて間もなくのことだった。

住宅の先には約三万坪の空き地があって、
下水管置き場に使用されていた。

住民多数と避難民たちは
その鉄管、土管の中へ避難した。

土管類の直径は一メートル、長さ三|四メートルほどあったらしい。

その中に三万人もの住民がもぐりこんで退避したという。

話の続きを聞こう。

「この土管の中に約三万八の月島住民は避難してぬた。
勿論着のみ着のままで……辺りには火薬庫がある。
これが万一破裂しようものなら生命はこれまでだと生きた心地もなく
恟恟(きょうきょう)として潜んでぬた。

(略)
これより先、越中島の糧秣廠(りょうまつしょう)には
その空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約三千人が
雲集してめたところが、
その入口の方向に当つて異様の爆音が連続したと思ふと間もなく
糧秣廠は火焔に包まれた。
そして爆弾は所々で炸裂する。

三千人の避難者は逃場を失なって阿鼻叫喚する。
遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、
一人残らず焼死して仕舞った。

月島住人は前記の如く
土管内に避難し幸ひに火薬庫の破裂も免れたため死傷者は割合少なかつた。
それだけこの三千人を丸焼きにした実見者が多かつた」

繰り返すが越中島の東京湾沿いにある糧秣廠と月島とは、
枝分かれした大川を挟んで目と鼻の距離にある。

もとより糧秣廠とは
軍が馬の秣(まぐさ)を収納するだけの簡素な倉庫である。

爆弾などが置いてあるはずもない。
広さは広いが火の気に警戒してきたのは軍の常識である。
そこへ爆発物の音が連続して聞こえ、火の海となったというのは尋常ではない。

話は核心に入る。

「而も鮮人の仕業であることが早くも悟られた。
そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において
不逞鮮人の物色捜査に着手した。
やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。
恐らく首魁者の一人であろうといふので
厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白伏した。
『われわれは今年の或時期に大官連が集合するからこれを狙って爆弾を投下し、
ついで全市到るところで
爆弾を投下し炸裂せしめ
全部全滅鏖殺(おうさつ)(注・皆殺しの意)を謀らみ、
また一方二百十日の厄日には
必らずや暴風雨襲来すべければ
その機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた』
風向きと反対の方面に火の手が上ったり
意外の所から燃え出したりパチパチ異様の音がしたりしたのは
正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであった事が判然したので
恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決して
この鮮人の首は直に一刀の下に別ね飛ばされた」

もちろん、
現代の法秩序からいえばいくら爆弾投下を自供したからといって、
その場で民間人の手で首をはねるという行為は許されない。

だが、
大災害のさ中に計画的なテロ行為をもって大量殺人が行われれば、
市民の怒りはもっともなことといえよう。
そして、このような例はほかにも少なからずあったと考えられる。
これがいわれるところの「虐殺」のカウントに加えられているのだが、
避難していて殺された犠牲者の立場を考えれば当然の処置だといえよう。

大前提として、
まず朝鮮人がどんな主義主張があったにせよ
この大震災に乗じて無事の市民多数を殺傷したこと、
集団をもって市民を襲い、
結果として尋常ならざる恐怖感を与えたゆえの
結末であることを忘れてはならない。


P134~140

  自警団の「覚悟」

ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、
朝鮮人の襲撃事件が決して「流言飛語」などという絵空ごとではなく、
実際に襲撃があったからこそ
住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。

今日流通している関東大震災関係の専門書の大部分は
「流言飛語のために自警団等が朝鮮人を虐殺した」
という前提に立って書かれている。

何もしない朝鮮人と見られる男が歩いて来たとしよう。

町内壊滅の騒乱状態にあったとしても、
町内会、自警団、青年団員が
その朝鮮人をいきなり殺すなどという行為ができるものだろうか。

何もしない人間を次々に「虐殺」するなどという行為は、
狂気のような指導者がいて
洗脳でもされていなければ簡単に実行できるものではない。

だが、
仮に爆弾や凶器、毒薬でも持ち歩く集団が
町内に入って来たとすれば、
自衛のため相手を殺傷する「決意」や「覚悟」が
自警団員に発生するのは状況から当然である。

そうしなければ
自分たちの町が破壊され、
妻や子が殺されるのであれば、
先に行動を起こすのは正当防衛である。

そうした強い覚悟があってこそ
初めて可能な、
そして恐らく手を染めたくもない行為をさせることになったケースを
「流言飛語」による「虐殺」とはいわない。
それが自警団であろうと、警察官であろうと、
彼の最終解決手段は正義といっていい。

普通の生活者である朝鮮人が
誤認から殺害されるなどという不幸な例がまったくなかったとは断定できない。

さらに調査が必要だろうが、
基本的には、
襲撃計画を実行しようとした朝鮮人が殺傷されたのだ。

そのようなケースが果たしてどのような数字になるのかは、
後の章で検証しなけれはならない。

今必要なのは、現実に朝鮮人による襲撃があったことと、
その場合に対してのみ自警団が
強い覚悟をもって対処した事実を検証する作業である。

何もしない気の毒な朝鮮人を「虐殺」するようなヒマは
自警団にはありはしなかった。

だが、
誰からも強制されずに最後の覚悟によって
自分たちの町内と家族の命を自分たちで護るという決意を
持っていたのが大正時代の人々だった。

命令がなくても崇高な覚悟
――それは沖縄戦におけるいわゆる集団自決であろうと、
自衛的殺傷であろうと同質である――
があった日本人は自分で断崖から飛び降りたし、
自分で手椙弾を破裂させたのではないだろうか。

同じことがこの大震災でもいえるのだ。

理由もなく「殺人事件」が実行された事実はない。

ない事実は「嘘」ということである。

朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きたのである。

実際に起きた事実を後になって隠蔽し、
「朝鮮人の襲撃はなかった」ことにしたのは、
実は政府そのものなのである。

俗にいえば自警団は政府によって突如としてハシゴを外されたのである。

震災発生当初、
新聞各紙は暴行を繰り返しながら東京市内へ侵入してくる朝鮮人の犯罪を、
事実の情報に従って大きく掲げ、
国民に警戒を促す警鐘を鳴らしていた。

ところが、
間もなく戒厳令下の政府から事実の公表を止められる事態となった。
奇怪としかいいようのない「超法規的措置」がとられたのだ。

奇妙なことに、
朝鮮人による暴虐行為はなかったことに一転させられたのだ。

 その転変のいきさつは新聞によって明らかである。

 襲撃を伝える新聞

まずは朝鮮人の集団襲撃を伝える第一報である。

「目黒と工廠の火薬爆発
朝鮮人の暴徒が起って横浜、神奈川を経て
八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」
(「大阪朝日新聞」大正十二年九月二日)

「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く
一日正午の大ヂシンに伴ふ火災は帝都の各所より一斉に起り、
二日夕刻までに焼失倒壊家屋四十方に上り死傷算なく、
同時に横浜横須賀等同様の災禍に会ひ、
相州鎌倉小田原町は全滅の惨を現出した。
陸軍にては
昨深更災害の防止すべからざるを見るや
出動の軍隊に命じて焼くべき運命の建物の爆破を行はしめた。
この災害の為め帝都重要の機関建築物等大半烏有に帰し、
ヒナン民は隊を組で黒煙たちこむる市内を右往左往して飢に瀕し、
市民の食糧不安について鉄道省は各地を購入方を電命し、
府市当局は市内各所に炊き出しなし、
三菱地所部も丸の内で避難民のために炊き出しを行った。

一方猛火は依然として止まず、
当市内朝鮮人、
主義者等の放火及宣伝当頻々としてあり、
二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めてゐる。

因みに二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果、
午後四時までに本郷富坂町署で六名、
麹町署で一名、牛込区管内で十名計十七名の現行犯を検挙したが
いづれも不逞鮮人である」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

「鮮人 いたる所めつたぎりを働く
  二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す

 今回の凶変を見たる不平鮮人の一味は
ヒナンせる到る所の空屋等にあたるを幸ひ放火してをることが判り、
各署では二日朝来警戒を厳にせる折から、
午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ
辛ふじて追ひ散らして
その一二を逮捕したが、
この外放火の現場を見つけ取り押へ又は追ひ散らしたもの数知れず、
政府当局でも急に二日午後六時を以て戒厳令をくだし、
同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして
警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し、
正力主事、山田高等普通課長以下三十名現場に急行し、
一方軍隊側の応援を求めた。
尚は一方警視庁本部備へつけの鉄道省用自動車を破砕すべく
爆弾を以て近寄った一団二十名を逮捕したが逃走したもの数知れず」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)


「鬼気全市に漲る
 不平鮮人団はいづれも帽子をまふかにかふつてゐるもので、
普通の男子はすべて帽子をぬぎ、
左手に白布をまとふこととし、
もしウサンな男と出あった際はまづ生国を問ひ答へのにごるものは追究し、
ソレと窮する時は直ちにこぶしの雨を降らす有様で
殺気は次第に宮城前広場、
日比谷公園より丸の内一帯、
同日午後九時頃鮮人の一団三十余名ヒナン民を以て
充満した二重橋の広場に切りこんだとの報に接し
江口日比谷署長は部下を率ゐ警戒に任じ、
十時半頃に至りその一味を発見すると彼等は日比谷公園ににげこみ、
十数名の一団は時の声を挙げて此処にヒナンしてゐる老幼男女を脅かし
各所に悲鳴起り、
目下警戒に主力を注いでぬるのは
渋谷地方で鮮人等はこの方面がやけ残ってゐるので
放火をしようとたくらんでぬる」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

「日本人男女 十数名をころす
目黒競馬場をさして抜刀のまま集合せんとし不平鮮人の一団は、
横浜万面から集まったものらしく、
途中出会せし日本人男女十数名を斬殺し後
憲兵警官隊と衝突し三々伍々となり
すがた影を隠したが、彼等は世田ケ谷を本部として連絡をとってをると」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

 「横浜を荒し 本社を襲ふ
   鮮人のため東京はのろひの世界
 横浜方面の不逞鮮人等は京浜間の線路に向て鶴嘴(つるはし)を以て
線路をぶちこはした。
一日夜火災中の強盗強姦犯人はすべて鮮人の所為であった。
二日夜やけ残った山の手及び郊外は鮮人のくひとめに全力をあげられた」
(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)

新聞各社が壊滅したことは既に触れた。

被害が比較的軽微で済んだ「東京日日新聞」だけは号外を除き、
まず九月三日に復旧、
次に刊行されたのは「報知新聞」が九月五日、
「都新聞」が九月九日、
「東京朝日新聞」に至っては十二日になって一部復旧し、
市内版の発行にこぎつけたが地方発送は十六日からという惨状であった。

輸送手段の崩壊、宅配すべき各戸の焼失を考えれば
それでも懸命の復旧作業の成果といえるだろう。

この新聞記事が情報を待つ市民の手に届くのは
街頭に貼り出された新聞によって読み、
また口伝にその情報が伝播した。

自宅への配送などありえないからだ。

ここに挙げた記事はほとんど警察情報である。

東京警視庁の九月二日発表、
ということはかなり早い情報として三日朝の新聞に掲載されたものだ。

この段階で内務省、警察幹部がありもしない
「朝鮮人襲来」をでっち上げる必要性は皆無である。
大地震が起きたタイミングを即刻利用して
朝鮮人への敵愾心を煽る必要に急遽かられ、
インチキ記事を流した、とでもいうのだろうか。

そのような必要性は日本政府にも、
新聞社にもこの段階であるわけがない。

あったのは、
ここまでの資料で分かるように、
年来の朝鮮独立運動と社会主義者が組んだ組織的犯罪が頻発し、
国民に恐怖感を与えてきたという事実である。

爆弾犯人や現金強奪事件といった国家中枢を麻陣させようとするかの犯罪に
多くの日本人が脅えていたのが大正時代のこれまでであった。

したがって、
警戒心は怠らないよう警備当局も市民も心掛けていたに違いない。

そうした万一への警戒態勢はあったが、
発生もしてない、
殺人、
強姦、
抜刀切り込みなどという作り話をこの災厄時に流す意味は見出せない。

「虐殺があった」とする多くの文献は、
これら警察発表と新聞記事のすべてを虚報と決め付け、
「朝鮮人による襲撃」などというのはでっち上げで、
虐殺を正当化するための作り話である、としている。

そのトリックを突き止めねばならない。


P163~165

  「朝鮮人を救え」
新内務相後藤新平が始動開始するや、
水野錬太郎時代とは百八十度方向が違う警備政策が実行された。

その際たるものが朝鮮人対策だった。

後藤は新聞報道への介入るテコに、
朝鮮独立運動家による日本攻撃の矛先を緩める策を思いついたのだ。

その結果、何が始まったか。

まず、
新聞記者は焦土の市内を走り回って、
朝鮮人による善行や小さな親切を必死になって探し始めた。

もとより朝鮮人がすべてテロリストであったり、
強盗殺人を働くなどとは自警団でさえ誰一人考えてもいない。

朝鮮人の中には扇動されて、
あるいは貧困からか、
時の勢いからか襲撃行為をなす者がいた、
その危険回避のためには自衛的武装も必要で、
場合によっては殺傷する覚悟も必要だった、ということなのだ。

従って、
何にもしない、
通常の生活者としての朝鮮人に対し危害を加える必要は
もとより持ち合わせていない。

「善良なる朝鮮人」も多数存在したに決まっている。

ただ、彼等さえ不幸にして震災の犠牲となった数は知れない。

そのことは日本人とて同じである。

新聞記者が「その気になって」探せば、
町の中で美談をもつ朝鮮人に出会うのはさほど難しくはない。

さっそく美談は記事になって唐突ながら登場し、
内務大臣は大いに満足した。

かくしでて
「善良なる朝鮮人」が新聞に紹介され、
朝鮮人を救う運動が国家的に開始された。
警視庁は朝鮮人が誤解を解くために奉仕活動を始めたと新聞に書かせる。

「鮮人団相愛会が無償で道路工事 誤解をとく為に奉仕
南千住にゐる朝鮮人団体相愛会の李会長、朴副会外百名の朝鮮人が
まずは不逞視されてにくまれてゐるのを遺憾に思ひ、
自分達は社会奉仕をして朝鮮人の誠意ある所を示さんとて数日間の無償で
人形町通り新大橋かぶと橋間の道路の障碍物のけに従ひ
誤解をとくにつとめてゐる」
(十日、警視庁発表)(大正十二年九月十一日各紙)

まことにありがたいことで感謝に堪えないが、
生き残った日本人全員が跡片づけをしている姿を
よもや警視庁は見ていないわけではあるまい。

「無償で」とは面妖な解説付きである。
有料で片づけをした日本人がいたら教えてもらいたいものだ。


P179

朝鮮独立運動家と社会主義者とが連携して我が国に対し揺さぶりをかけ、
さらには国家の存亡さえさえ左右するような謀略を企図していたことは
まぎれもない事実であった。

  肉を切らせて骨を断つ

「流言飛語」というゆるぎない大前提に立った解釈が
今日まで八十六年、続いてきた。

朝鮮人による暴動は虚報だった、
自警団は
狂気のように朝鮮人を殺害したという亡霊のような歴史観を疑うことは
誰一人としてしなかった。

それが日本人の自虐思考の礎のようにして固まったまま、
今日まで時間が経過してきた。

そこには、
しかし、
事態のさらなる険悪化を防ぐため、
内務大臣後藤新平の苦肉の策謀があったことをここまで検証してきた。

後藤の「引き際作戦」とでもいうべきこの苦肉の策は、
まさに「肉を切らせて骨を断っ」というにふさわしい。

実際には朝鮮人による暴虐行為が数知れずあったため、
逼迫した自衛の覚悟をもって自警団は立ち上がった。

そこに、多少の誤認や過剰防衛がなかったとはいい切れない。

だが、
それすらも、
この阿鼻叫喚生き地獄の中では自存自衛のためとしか
いいようがないのではないか。

市内に流入してくる朝鮮人は、
町内の、
家族の、
妻や子の敵に思えたとしでもやむを得ない状況があったと理解される。

それを認めないというのならば、
国家も町内も家族も暴漢に襲われ、滅亡しても構わない、とする
「国家崩壊」という暴論を是とする以外に国民の生きる道はない。

P187、188

  方針転換の裏側
朝鮮人による暴動の真相を見極めることの困難さは、
後藤内務相主導による「宥和策」にあるといっていい。

後藤は就任するや、
それまで警視庁と有力新聞社が
積極的にに書いていた朝鮮人の暴動報道をわざと抑え、
代わりに自警団に自重を求め、
朝鮮人保護を前面に打ち出させた。

とはいうものの、
「あれは流言飛語だから安心して治安は軍と警察に任せよ」
と急に調子を変えられても、
現実との乖離を目の当たりにする市民の困惑はいかばかりであったろうか。

この問題の難しさは、
事実を抑え込み、
「なかったこと」にして鮮治政策を穏便に済ませようとした点にある。

その後藤たちの腹の内には、
このまま朝鮮独立運動家を追い詰めれば
摂政宮の身に危険が及ばないとは限らないという恐怖感が
あったからだと推察できる。

結果的には、
政府そのものが「流言飛語」の真相をおおむね認めたわけである。

その矛盾が後世、八十六年経っても一人歩きをして
「朝鮮人による暴動説はは流言飛語によるもの」だという俗説として定着した。

震災後、
時間を経るに従って政府が転向したのは、
国体の危機を感じ取ったためである。

極端にいえば、
摂政官の生命と引き換えるわけにはいかないから、
「流言飛語」で逃げ切り、
事態収拾を図ったということになる。

だが、震災直後にそのように理解するのは無理だった。

正力の影響が及ぶ有力紙は方針を転換し、
すでに述べてきたように
「優しい朝鮮人」「奉仕活動をする朝鮮人」を探してきては紙面を飾った。

P203~205

内務省が震災三日目から政策転換をし
「朝鮮人による襲撃は流言飛語だ」
「朝鮮人を保護しよう」という運動に切り替えたことに対し、
強硬に抗議の意思を示した人物がいた。

ここは内田良平という国士の発言に耳を傾けておく必要がある。

  内田良平

第四章で示したように、湯浅警視総監名で理解不能な告示が出された。

門柱、板塀などに記された奇妙な符号は
朝鮮人が襲撃目標として書いたものではなく、
糞尿処理業者が便宜上「得意先」の目印につけたものと
判明したから安心せよ、というものであった。

もちろん、
ここまで再三確認してきたように
これは内相後藤新平の戦術である。

後藤は朝鮮人の襲撃事実を知りながらも、
自警団の防衛システムが極めて完壁に遂行されているのをかえって怖れ、
その結果、
社会主義者と朝鮮民族独立運動派による復讐テロが
摂政宮周辺に及ぶのではないかと考え、方針転換を図った。

当初は、
大震災勃発から四十八時間余の間、
警察は朝鮮人の襲撃を警戒するよう呼びかけてきた。
新聞も同様である。

その変化は九月四日の夕刊に始まる。
「善良な朝鮮人を愛せよ」というキャンペーンが張られ、
七日には「流言浮説取締令」の勅令が発せられるまでになった。

それは、
いかにもその場の緊急避難策としての高度な政治判断による知恵だとは分かる。
だが、
家族や町内を守るため、
まっとうに命をかけていた自警団はハシゴを外されたことになる。

こうした政治的処理は、
長い目でみれば両民族にとって
禍根の影を後世に残すものではないかという見解を述べる者もいた。

その代表的な人物、内田良平は次のように語り、抵抗を試みた。

九月中旬の発言と考えられる。

「震災前後の経綸に就て
今回の震災に乗じ社会主義者及び一部不逞鮮人等が爆弾を投じ
或は放火をほしいままにし
或は毒殺、掠奪その他在らゆる非道なる兇行を逞しうしたるは
天下万民のひとしく認むる所にして
一点疑ひの余地を存せざるなり。
言うまでもなく
放火、投弾及び毒殺、掠奪その他女性に対する凌辱等は
実に社会の兇行にして
人類の最も卑しむべき罪悪なりとす。
いわんや此の非常天災時を機会として、
あえて其の兇悪をほしいままにし
其天災をして
倍層甚大ならしめたること天人共に許さざる所に砕いておや。
しかるに政府当局は、
じらい、しきりにこの兇行に対し、
極力その事実を否認しつつあるは
吾人その意を解するに苦しむ所なりといえども、
その結果はかえって
一面には列国をして
日本国民の品性を誤解せしめ多面には
日鮮両民族をして永くぬぐうベからざる暗影を印せしむる至るべきは、
吾人の痛歎禁ずるあたはずとする所なり」

内田良平は
明治七(一八七四)年、
旧福岡藩士の家に生まれ、
幼いころから武術百般を習得し、
また学問にも秀でロシア語を学ぶなど語学にも通じていた。
内田の叔父、平岡浩太郎が玄洋社初代社長という関係から、
早くから国家主義運動の主導者頭山満の薫陶を受けていた。

やがて自ら黒龍会という政治結社を立ち上げ、
対ロシア主戦論を前面に押し出し、
朝鮮半島を中心としたアジア全域への活動を展開し、論陣を張ってきた。

その内田良平が主張する前出の論文は、明らかに政府批判だった。

朝鮮人の卑しむべき凶行の事実を無視するのは
両民族に拭いきれない禍根を残すものだと訴えている。

そのため、黒龍会の行動には憲兵隊の監視も一段と厳しさを増していた。

それでも内田良平は、
警視庁が事実の打ち消しに狂奔するのを看過するわけにいかないとして、
会員自らの手で真相調査をして報告書をまとめている。


P216~289

  「a feW」

「国際世論も日本非難の論調を強める構えをみせはじめた」
と佐野眞一は
日本人による朝鮮八虐殺が
あたかも世界の世論から攻撃されつつあるかのように述べている。

だが、
よほど情報不足の大使館か、
さもなくば社会主義者と朝鮮独立運動家による
謀略宣伝に騙された外交官以外には
そのようなことを信じる海外領事館はなかった。

当時の日本国内の情報が海外へ知れるには、
まず当該外交機関を通じた報告書以外には考えられない。

第四章でも紹介したように、
震災当日在日した外国人旅行者の体験でも話は逆である。

帝国ホテルに避難して来た外国人客も、
朝鮮人の襲撃に怯えた夜を過ごしたのだ。

例えば東京のイギリス大使館では
以下のような報告書を本国政府に送っている。

これは、
今回の取材で初めて
ロンドンのナショナル・アーカイブスから発見された公文書である。

「l923年12月24日 在東京イギリス大使館より本省への報告
(日本政府)当局はすぐに法律と秩序を保つために行動に出ました。
戒厭令が布かれ、
軍部の適切な行動により深刻な暴動や掠奪はありませんでした。

しかしながら市内では、
建物に放火をしたということで、
僅かな(原文でa few)の朝鮮人が人々に
殺されたように見受けられます。

朝鮮人力勘者です。朝鮮人の中には一定の不平分子たちがいて、
彼らが放火の罪を犯した可能性があります」
(「ロンドシ・ナショナル・アーカイブス所蔵」)

「afew」とはいうまでもなく
二、三人程度しかいない、ということである。

東京のイギリス大使館の調査というのは、
他の追随を詐さないほどその情報収集能力に長けていたはずである。

自警団の行動が外国からの信頼感を損ねる、
という事由はこの際ほとんど無意味なものだといっていいだろう。

さて、
イギリス大使館では
ニ、三人程度が殺害されたと報告しているのに対して、
在日朝鮮人学生による独自調査、
上海の亡命朝鮮政府機関紙「独立新聞」の調査、
さらに吉野作造の聞き取り調査、
司法省はじめ政府による調査など
各方面からさまざまな「虐殺」人数が公表され、
事態の真相が極めて見えにくくなった。

朝鮮人に限らず、
中国人も被害をこうむったことが判明している。

また方言を話す日本の地方出身者なども誤認殺害されるなど、
当時の混乱した社会情勢がうかがえる。
そうした統計数字は、
研究者の間でも議論が分かれたまま今日に到っている。

変わっていないのは、
日本人が「朝鮮人を虐殺した」という決まり文句だけが、
関東大震災の話になると
揺るぎない大前提ででもあるかのように必ず登場することである。

 そこには数字によるトリックと、
雑誌や書籍資料などに
繰り返し掲載される
震災現場の写真のキャプションなどの操作が必ず見受けられる。

その点では、
関東大震災も南京大虐殺の偽装写真説明などと
極めて似ているといえそうだ。

この点に関しては後述する。

そこでまず、
表面に表れてきた数字を冷静に逐一検証しつつ、
実相に迫ることから始めたい。

 調査①「独立新聞」説――六千四百十九人

関東大震災時の「朝鮮八虐殺」を論ずる際に必ず便われる数字が、
上海に亡命した大韓民国臨時政府が発行する機関紙
「独立新聞」によって報じられたものである。

 上海には当時多くの朝鮮独立運動家が集結しており、
三・一独立運動後の活動拠点として抗日政府を設立していた。

主要な指導者は
李承晩(イスンマン)、
呂運亨(ヨウニョン)、
金九(クムグ)などである。

 機関紙「独立新聞」の社長の名をとって
この報告書は「金承学(キムスンハク)学調書」と呼ばれ、
「現代史資料6/関東大震災と朝鮮人」
はじめ多くの関係書に翻訳引用されてきた。

まさに「虐殺人数の原典」といってもよい扱われ方をしている。

この「独立新聞」特派員報告をまず見ておこう。

[朝鮮人虐殺最終調査報告・1923年12月5日付「独立新聞」]

被殺地                被殺人数

亀戸、大島、小松川方面        363人

寺島、月島、深川方面         123人

浅草方面               80人
 
荒川、千住、馬橋方面         119人

東京府下、府中方面          8人

干葉県船橋、法典村、成田方面     183人

埼玉県熊谷、本庄、寄居方面      195人

宇都宮、東那須野方面         4人

群馬県藤岡警察署           17人

長野県境               2人

神宗川県               1795人

小計                 2889人

(以上は屍体を発見できなかった同胞)

神宗川浅野造船所、土方橋方面     274人

保土ケ谷、新子安神奈川駅       211人

神奈川鉄橋              500人

戸部、鶴見、浅間町方面        276人

習志野軍人営廠            13人

小計                       1274人

(以上は屍体を発見した同胞だが、
特派員が実地に見たのは1167人、その他は調査中)

上記した第一次調査を終了した十一月二十五日に
再び各県から報告が来た。

東京府                752人

神奈川県               1052人

群馬県                17人

茨城県                5人

千葉県                133人

埼玉県                293人

栃木県                4人

小計                 2256人

(愛国同志援護会編
「韓国独立運動史」、
「現代史資料6」、
「関東大震災時の朝鮮人虐殺」など。
原文は被殺害場所別に極めて細かく表示されているが、
ここでは読みやすさを考慮し
地域をある程度まとめて合算した上で表記した。
また、
原文の累計は6661人となっているが、
これは合算間違いによる誤記と思われるので訂正した)

 この調査報告の奇怪なことは、
「屍体を発見できなかった同胞」数が
実に二千八百八十九人に及んでいる点である。

「虐殺された」と主張する死体が発見されないまま
それを虐殺としてカウントするのはしょせん道理が通らない。

おそらく最大好意的に解釈したとしても、
氏名と住所が確認されたものの本人が見つからない、
どうやら殺害されたに違いないと判断した、
ということだろう。

そうだとすれば、
それは「行方不明者」としてカウントされるべきものである。

不明だから殺された、という主張は非論理的である。

地震直後に移動したか、
不幸にも焼死、圧死して焼却され無縁仏となった可能性が高い。

次の「屍体を発見した」とされる約千二百七十四人だが、
これも殺害されたのか、
震災による死体なのかの判断は極めて困難である。

朝鮮人同胞間の情報交換から、
調査員は殺害されたと判断したのだろうが、
上海から京浜地区にすぐやって来たとしても、
死体が焼却された時点に間に合い独自に検視をしたとは考えにくい。

死体処理にあたった東京市の作業を点検してみよう。

概略はこうである。

先の章でも触れたが、
火葬場の能力ははるかに超えていたので、
被服廠跡はじめいくつかの広場、公園、河川敷などを
臨時の火葬場とし、
連日人夫を駆り集め、薪では不十分なため重油をもって各所で処理した。

それがおおむね九月八日から十日くらいまでのことである。

ところが、
隅田川の死体はもとより、
他の河川に浮き沈みする大量の死体の処理は
陸軍工兵の手を借りて
落下した橋や障害物を排除しなければ引き揚げられなかった。

すでに異臭を発している死体の引き揚げには
九月九日から十五日までかかっている。

その後は、
家屋の下敷きになって
圧死したままになっている死体発見に取り組み、
各警察署管内で千三百余人の遺体を掘り起こし収容、焼却した。

この区域は
日本橋、
神田、
麻布、
牛込、
本郷、
下谷、
小石川、
本所などが中心で、
最後の遺体処理が終わったのは十月中旬といわれている。

この警察発表に満足しない「愛国同志援護会」は、
どうやって自分たちでカウントできたのか
不明なまま人数の増加をした。

「近県から集まった追加調査」だとして、
二千二百五十六人が迫加され、
最終的には六千四百十九人
(報告書では六千六百六十一人)
が虐殺されたと報告したのである。

上海からすぐ船便でやってきたとしても
「独立新聞」記者が直接自分で調査するのは困難な話で、
「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」
という組織に加わって調査に同行したと思われる。

調査のためにやって来たのは
韓世復(ハンセボク)という記者で
彼は上海に戻るとすぐに記事を書いた。

上海では、
調査結果を共にした同胞慰問班の活動報告会が行われ、
聞き取り調査の結果であるとして先の数字が挙げられた。

十一月二十五日までの結果だと報告されている。

さて、
聞き取り調査をした在日朝鮮人の組織は
果たして死体をその目で確かめ、
検視の結果も調査し、
氏名、住所との照合ができたのであろうか。

そうでなければ、
どこそこで何人という詳細な統計が取れるはずがない。
日本人の大多数でさえ、
身元不明のまま河川敷や被服廠跡で焼却され、
隅田川を腐乱したまま流され、
鳶口で掻き揚げられたのだ。

いずれにしても
六千数百人という数字は
東京、横浜における在日人数から推しても大きくかけ離れており、
大矛盾を来しているがその問題は後に述べる。

調査②「同胞慰問班調査員・崔承万説」――二千六百七人

「独立新聞」とは別に、
学生を中心とした「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」
に所属する崔承万(チェスンマン)は、
それとは別に独自の調査を開始していた。

大正十二年十月末までの調査結果と断った
その数字を次に見ておきたい。

崔承万による調査で理解に苦しむのは、
被殺数とは別に、
裏にあるという「実際の被虐殺予想数」を場所によって
「または」と併記している点である。

[同胞慰問班員・崔承万調査報告]

被殺地                      被殺人数

神奈川県浅野造船所前広場       48人または80人

保土ケ谷町              31人または50人

土橋町と八幡橋の間、根岸町       174人

子安町から神奈川駅間、御殿町     235人

神祭川鉄橋              500人

鶴見町                7人または326人

川崎、久保町、浅間町方面       134人

埼玉県川ロ、熊谷方面         96人

本庄                 80人

神保原、早稲田村方面         55人

寄居                 14人または35人

群馬県藤岡              18人

干葉県船橋              38人または69人

同法典村、馬橋、流山方面       88人

佐原、成田、我孫子方面        15人

長野県軽井沢付近           2人

茨城県筑波本町ほか          44人 

栃木県宇都宮ほか           4人

東京亀戸署              87人または320人

月島、小松川、向島方面        156人

洲崎飛行場付近、深川西町方面     92人

押上、大島八丁目方面         193人

浅草公園内              3人または200人

府中、新宿駅内、四谷見附ほか     9人 

吾妻橋、上野公園内          92人

王子、赤羽荒川、千住         392人

以上累計                     2607人または3459人


(①同様、地域をある程度まとめて合算した上で表記した。
なお原文の累計は2613人となっているが、
これは合算間違いによる誤記と思われるので訂正した)

「または」という表記の根拠なきいい加減さは
笑止の極みといわざるを得ないが、
さらに統計にあるような五百人、八十人、二百人といった
雑駁な数え方を見るだけでこの調査の信憑性を疑わざるを得ない。

いずれにせよ、
調査人崔承万は
慰問班の責任調査結果として
虐殺されたのは二千六百人余との結論を公表した。

さらに崔は実際の虐殺数は五千人以上だろうと追加推定している。

崔の理由は
虐殺宣伝の資料
「関東大震災時の朝鮮人虐殺」(山田昭次著)によればこうだ。

「この時東京と横浜、
およびその付近には約三万名余のわが国の人がいた。
(大阪地方では約六、七万名が暮らしていたと言う)

その時の日本人たちの興奮状態、
とくに軍隊、自警団、青年団、在郷軍人たちが
朝鮮人であることがわかりさえすれば、
ことの曲直を問わず手当たり次第に殺したという事実から見て、
我々がおよそ短い時日で調査した
二千六百十三名以外に数千名予以上になる人が殺されたろうと思う」

という極めて大雑把な根拠にたって、さらにこう付け加える。

「その時、東京と横浜付近に暮らしていた三万余から
震災後各所に収容された生存者七千五百八十名余を引くと、
二万二千四百二十名となる。

確実な調査は出来ないので、
少なく見積もって四分の一としても、
五千六百余名となるので、
罹災朝鮮同胞慰問班では虐殺された人は五千名と意見を集約した」

 吉村昭「関東大震災」も
この「慰問班」数字「二千六百十三人」をそのまま引いている。

朝鮮人は何人いたのか

まず、
大前提として知っておかなければならないのが
震災当時の在日朝鮮人の人数である。

もちろん、
当時の政府にも
「その日」何人いたのかの算出ははなはだ困難であった。

決定的に算出が困難に陥っているのは、
終戦時に内務省が
自らの手で重要書類の大部分を焼却してしまったからだ。

米軍が上陸してくるまでの間に、
全国各地内務省、
特高警察では連日徹底して書類を焼却した。

「終戦になるという報せがあって、
第一に重要書類を焼けということです」
という関係者の証言が残っている。

実際、防衛資料研究所でも同様の回答を得た。

精緻を極める点では誠に残念な処置といわねばならない。

それでもなお当時の政府資料を元にして
考え得る基本数字を再確認しておけば以下の通りとなる。

罹災朝鮮同胞慰問班による
関西方面に約七万人、
東京方面に約三万人いたとする説は
「虐殺」人数を膨大化するためのトリックである。

二章で述べたように当日の在日朝鮮人の人口は約八万人である。

東京における在日朝鮮人は約九千人
(内訳は労働者六千人、学生三千人)とされる。

ちなみに
前年十一年末の同人口は
七千二十八人と特定されており、
この間の流入人ロが特に膨らんでいたことが分かる。

全移住朝鮮人が九月一日の昼に在宅していたわけではない。

政府関係文書は
震災時に地域圏外へ
帰郷、仕事、休暇などの理由で出ていたと推定される人数を
二割とみて、
千八百人ほど差し引いている。

すなわち、
東京に残っていた人数は約七千二百人である。

近県での在日朝鮮人数は約三千人。

そのうち、
同じく圏外に出ていた人数は東京より少なく見積もって約四百人。

すなわち近県に残った人数は約二千六百人となる。

したがって、
震災当日の東京と近県の在日朝鮮人総数は、
推定約九千八百人である。

この九千八百人が、すべてを点検する基礎数字となるのだ。

以下は当時の政府関係文書による
保護、収容された朝鮮人の人数である。

抜粋して要件のみ引用する。

 l、
九月十五日迄に習志野陸軍廠舎に収容したる鮮人は三千百六十九名。

 2、
労働者四千名主として本所深川辺に居住せり、
目下警察署に収容し保護を加ふる者合計二千五百名。

 3、
埼玉、栃木両県下各警察署等に於て、
保護中なりし鮮人四百七十一名。

 4、
神奈川県庁に於ては鮮人約四十名を収容し保護を加へつつあり。

 5、
目黒競馬場に収容保護を加へつつある鮮人は約六百十七名なり。

九月十七日現在の数字である。

つまり、
各所に収容・保護されていた朝鮮人は六千七百九十七人いた。

東京およびその近県に震災直後にいた朝鮮人は
先述の通り
約九千八百人なので、
残りの約三千人の中に
震災での焼死者、圧死者、行方不明者などが
含まれると計算しなければならない。

この数字をみれば
二千数百人だの、
五千人だの、
六千数百人という「虐殺」数字が
いかに空想的なものであるかがはっきりとしてくる。

こうした曖昧で根拠のない数字が一人歩きをして
今日に到っているのだ。

次にそのからくりを解明しよう。

我が国を代表する学者としてその地位に就いてきた吉野作造や、
先に列挙した吉村昭、佐野眞一といった著名作家のほかにも、
これら虚構の数字を丸写しして済ませる
作家、学者はあとを絶たない。

例えば
歴史の実証的精査について
「事件後、日本政府は数千名という大ざっぱな数字を発表したが、
在日朝鮮人による調査では、
官憲のため不十分な調べとしても
概略六千六百余名が殺されたであろうと推測している」
と述べている。

さらに近現代史に関わる今井清一はこう述べる。
「内務省警務局の調べた被害者数は、
死者が朝鮮人二三一人、
実際に殺害されたのは、これに十数倍するであろう。
吉野作造が調査して伝えるところでは二千六百十三人にのぼる」

つまり、
吉野作造説を引用して済ませただけで、
在日人数との照合すらしていないずさんさなのだ。

数字のトリック



これまで紹介した調査が示すように、
「独立新聞」の報告も、
同胞慰問班の調査もその数字の根拠は
恐るべき雑駁曖昧なものといわざるを得ない。

まず、
すでに処理されてしまったはずの遺体検証ができるはずがない。

また在日していた調査員が
仮に遺体を見てもその損傷状況からして、
同胞であるかどうかさえ確認できなかった例も多かったはずだ。

そのため
「死んだ人の骨格や同胞同志の勘でもって、
被害者を集計したものもある」と調査員自身が告白している。

彼らが示すどの数字を当てはめても、
合算すれば在日した総人口とは合致しない。

くりかえすが、
震災直後に
東京及びその近郊にいた朝鮮人の総人口は約九千八百人である。

その内、
三千百六十九人が習志野の陸軍廠舎に、
二千五百人が市内各警察署に、
六百十七人が目黒競馬場に、
四百七十一人が埼玉、栃木の各警察署に、
四十人が神奈川県庁にそれぞれ収容保護されていた。

ここまでで六千七百九十七人となる。

(二千五百人の警察署保護の中には、
朝鮮人労働団体「相愛会」傘下の労働者三百人、
区役所や篤志家が率先保護し警察に収容した六百人内外を含む)

その収容中の待遇に不平不満をいいつのり、
「飯がまずい」「強制連行された」「扱いが乱暴だった」
と口々に文句を並べた記録が残されている。

だが、
軍はそうした施設へ収容することで、
神経過敏になっていた自警団から
朝鮮人を隔離保護し、
炊き出しをして握り飯を配給し、
毛布を配り、
傷を負っていた被災者には
赤十字と軍医による手厚い看護を施したのである。

そうした待遇については全く触れずに不平だけを言いたて、
野宿同然だ、
食糧不足だ、
手当てが遅い、
自由がないと騒ぎを大きくした。

保護された六千八百人の朝鮮人には食糧が配られ、
テントで雨露をしのげたが、
被災した日本人の大多数は逆に野宿をしたり、
仮小屋生活で食糧の不足を辛うじて助け合い、
便所もない生活を強いられていたことを忘れてはならない。

一方、
戒厳令司令部は
自警団等による過剰防衛容疑の日本人三百六十七人を起訴した。

この調査報告に基づいて、
無辜の朝鮮人が殺害された人数は二百三十三人であると公表された。

同時に、
朝鮮人と間違えられて殺害された日本人の数が五十七名、
中国人四名も殺害されたとの発表があった。

在日(東京とその周辺)人口九千八百人から、
保護された朝鮮人六千七百九十七人と
この無辜の被殺害者数二百三十三人を差し引くと
二千七百七十人となる。

この中に不幸にして震災の犠牲になった者や行方不明者が含まれる。

東京府全体の死者、行方不明者は
七万人余(死者総計は十万五千人余)、
下町界隈の死者は実にその八十%といわれている。

とりわけ朝鮮人も多く居住していた本所、
深川一帯での死者、
行方不明は五万八千人を超えている。

被災し落命(行方不明者を含む)した朝鮮人の総数は
二十七百七十人と算出されるが、
その中にいわゆるテロリストの死者が含まれる。
 
被災による正確な死者を算出しなければならない。

そしてその残数が、
テロリストやその賛同者、または付和雷同者として
殺害されたと思われる人数となる。

本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約十五%にのぼった。

まず、両区併せた人口総数約五十万人のうち、
震災時点で二割ほどが
区外に仕事などで出向いていたか、
休暇で被災を免れたとして
四十万人を被災基礎人ロとする。

死者、行方不明数は五万八千人余であるから、
その死亡率は約十五%近くあったとされるのだ。

一方、多くの朝鮮人の家屋は
おそらく耐震的にも弱く、劣悪な環境だったと推察される。

そこで、
十五%より多目の二十%を対人口死亡率とし、
被災基礎人口九千八百人に乗ずれば
千九百六十人という数字が死者、行方不明者として算出される。

二千七百七十人からこれを引けば八百十人となり、
これがテロリストとして殺害されたおおよその人数と推定される。

なおこの反面で、
過剰防衛として起訴された日本人もいたことを確認しておかねばならない。

自警団等によって
過剰防衛、もしくは誤って殺害された公式数字は二百三十三人とされた。

もとはといえば、
実際に横浜から押し寄せてきた朝鮮人の一団はじめ、
多くのテロリストの襲来が目の前で現実化したゆえの結果だ。

ゲリラと呼んでもいいだろう。

その襲撃に対して自警団は自らの生命をかけ、
重大な覚悟をもって町内を防衛し殺傷事件へと発展した。

その殺害されたテロリストの人数を特定することは困難であるが、
先に試算した方式を当てはめれば約八百人前後ではないかと思われる。

すなわち、
二千七百七十人から、
震災で亡くなった千九百六十人を差し引いた員数である。

両民族の衝突はまことに不幸なことではあるが、
民族独立のためには手段を選ばないとする朝鮮人テロリストの襲撃から
家族や町内を守るのは正義といっていい。

襲撃防衛は正当である。

この件は再三これまでに触れてきたので、ここではこれ以上は立ち入らない。

  震災の朝鮮人死者はゼロ?

「独立新聞」の調査①数字を仮に当てはめれば次のような結果となる。

総収容人数六千七百九十七人、
政府発表の被殺害者二百三十三人に加えて
六千四百十九人が殺害されたとすれば、
それだけで一万三千四百四十九人に膨れ上がる。

しかも付け加えれば、
彼等の抗日文書では習志野に収容された(文書では強制連行という)人数を、
一万二千人とも一万五千人ともいい、
非常に多数が「強制連行された」と主張する材料にしているのだ。

だが、
戒厳司令部の数字では、
習志野へ収容できたのは正確に三千百六十九人だったとしている。

新聞発表では、
「干葉県習志野及下志津兵舎内に
傷者約一万五千人を収容することを閣議決定した」
(「東京日日新聞」大正十二年九月五日)とあったが、
それはあくまで収容可能限度の人数を公表したに過ぎない。

それを逆取りして謀略宣伝のため数字を無闇に膨らませたことは明白である。

さて、
謀略のためとはいえ、
都合一万三千四百四十九人の朝鮮人が
「殺害並びに強制連行された」と主張すると、
あの阿鼻叫喚の大震災によって
落命した朝鮮人は一人もいないことになってしまう。

「東京に九千人、その近県に三千人、合わせて約一万二千人の同胞がいた」
という事実は朝鮮人自らがかねてより認めていた数字である。
 
仮に調査②の二千六百人余を当てはめたとしても
七千十三人の基礎数字(全収容人数+殺害認定数)に加え、
いうところの二千六百人を加えれば九千六百十三人となる。

これでほぼ総在日人数なのだから、
震災の死者はやはりほとんどいないことになる。

だが、
九月一日の昼、
災厄に巻き込まれ不幸にして命を落した朝鮮人が相当数いたに違いない。

震災で落命した同胞の数を棚上げしてまで、
テロリストたちは自らの目的を達しようとしてきたのだ。

かくも奇妙なからくりを駆使した謀略と宣伝が
繰り返しまかり通ってきたということをここでしっかり確認しておきたい。

調査③「吉野作造説」――二千六百十三人

次に、大正時代を代表する民本主義者として
地位も名誉もある学者吉野作造による調査結果に当たらなければならない。

先の①②の調査報告の直後に続けて紹介しなかったのは、
吉野の調査そのものが②の「在日関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」員
崔承万とほぼ同一のものだからである。

吉野は
「これは朝鮮罹災者同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、
この調査は大正十二年十月末までのものであって、
それ以後の分は含まれていな居ないことを注意しなければならぬ」
と断っている。

慰問班の一員とは崔承万に他ならない。
 
吉野の聞き取り調査で崔の記録と違う箇所はただ一点、
埼玉県本庄の被殺人数が崔は八十人だが、
吉野は八十六人となっている点だけである。

残りすべての数字は調査②の崔説と同一である。

したがって、
吉野作造説は二千六百七人より六人多い二千六百十三人となる。

吉野の報告書は当時東京帝大「明治文庫」に所蔵され、
現在は東大大学院法学政治学研究科付属センターに移管保存されている。

吉野説を先に説明した七千十三人の基礎数字に当てはめれば、
もちろん朝鮮人の震災による死者はいないことになる。

吉野が言うところの「それ以後の分は含まれていない」から注意せよ、
という意味は崔たちの調査にある「又は」による後日調査だろう。

「48または80」「31または50」「3または200」と字のはめ込みを
吉野作造ともあろう学者が信用し、
それが今日まで歴史の真実としてまかり通ってきたのには驚かされる。

吉野作造は大正三(一九一四)年に東大教授となり、
その後も欧米留学などを経験していわゆる民本主義を広めた。

普通選挙の提唱、推進、ストライキ権の獲得などの面で
信夫清三郎、大山郁夫、長谷川如是閑らと共に
大正デモクラシーの有力なリーダーであった。

震災時の吉野は四十六歳になっており、
まさに学者としての頂点に立っていたといえよう。

もとより吉野の主張は
朝鮮の独立運動や民族主義に対しておおいに共感をよせていた。

だが、
彼自身が社会主義運動そのものに積極的な関わりを持ったことはない。

主権在民という概念を軸に据えていたので、
彼の目想は昭和に入ってマルクス主義の風潮が強まるにしたがって、
むしろ影響力が低下したと考えられる。

一方でデモクラシーという新鮮な概念を大衆的に広めた功績は、
後世にまで高い評価を受け続けていることも確かだ。

しかし、
こと関東大震災においては
朝鮮の独立運動一派に
民族主義の立場から強い影響力を行使したことが明らかである。

その主張の多くは
「中央公論」「改造」などの代表的論壇雑誌に毎月のように展開されていた。

吉野の論調そのものは
抑制がきいていて穏健な政治学者を思わせるものがあるが、
朝鮮人虐殺問題となるや俄然舌鋒が変わる。

その代表的なものは東大に保管されている資料に付された前文であろう。

以下、その抜粋を一部引いて吉野の言い分の一端の確認としたい。

「朝鮮人虐殺事件

一 
朝鮮人虐殺事件は、
過般の震災に於ける最大の悲惨事でなければならぬ。
之は実に人道上政治上、由々しき大問題であるが、
事の完全なる真相は、今尚は疑雲に包まれ、一種の謎として残って居る。
或は永久に謎として葬られるかも知れぬ。
予はここでは予の耳に入った諸種の事実を簡明にまとめるのに過ぎない。


震災地の市民は、
震災のために極度の不安に襲はれつつある矢先に、
戦慄すべき流言飛語に脅かされた。
これがために市民は全く度を失ひ、
各自武装的自警団を組織して、
諸処に呪うべき不祥事を続出するに至った。
この流言飛語は何等根抵を有しないことは勿論であるが、
それが当時、如何にも真しやかに然かも迅速に伝へられ、
一時的にも其れが全市民の確信となったことは、
実に驚くべき奇怪事と云はねばならぬ。
荒唐無稽な流言飛語が伝播されたのは、
大正十二年九月二日の正午頃からである」

  内村鑑三の夜警

吉野作造が四十六歳で「朝鮮人虐殺」をカウントしていたころ、
すでに六十四歳という当時としては老齢に入っていた
あるキリスト教思想家が
夜毎、自警団に加わって夜警に立っていた。

吉野とは対極に立つその人物こそ内村鑑三である。

日韓併合に際しては反対の立場を貫き、
キリスト教伝道などの体験から、
自ら「朝鮮びいき」といってはばからない内村鑑三が
実は社会主義者に煽動されたテロには
身をもって立ち上がっていたということは特筆すべき事例である。

その仔細は彼の日記に残されている。

さて、
こうしてみてくると
大正時代を代表する民本主義のリーダーは
朝鮮独立運動に加わる慰問班と称する団体から
謀略に満ちた「虐殺人数」を公表し、
政府と自警団をなじった。

その挙句、
残された数字は八十六年の歳月を経ても
「吉野作造説」として跋扈し、
反日感情の基礎数字となっている。

一方、
日韓併合には反対していたにもかかわらず、
独自の平和論の立場から国民の安寧のためには軍隊に自宅を開放し、
率先して自警団に加わっていた学者もいたことが分かる。

内村鑑三や長男祐之の行動こそは、
芥川龍之介の「善良なる市民」の憤怒にも似て、
ごく平均的な国民感情に沿ったものだったのではないだろうか。

こうして謀略数字は、
「虐殺」人数を膨大に膨らませた亡命政府「独立新聞」による
六千数百人説から、
「同胞慰問班」による
二千六百人、もしくは三千四百人(最大五千人以上ともいう)説、
並びに、
その調査にそっくり依拠した吉野作造の二千六百人説と
さまざまなトリックが使われてきたことが分かる。

いずれも合算すれば彼等自身が認めている
当日の在日朝鮮人の総数からして、
震災による朝鮮人の死者はまったくいないことになるのだが、
その奇異には誰もこれまで触れようとしなかった。

「第178号   在京英国大便館

 l924年5月12日

横浜の英国総領事が郵送で受け取った
「朝鮮独立運動の朝鮮人」発行の小冊子とチラシをここに送付いたします。

小職の複数の報告でお分かりの通り、
大震災後に多くの朝鮮人が殺害されたことは疑いない事実であります。

しかし、
不幸な出来事は
この小冊子の筆者によって
著しく誇張されており、
日本の当局が虐殺を煽動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます。

東京や横浜の住民は恐慌状態に陥り、
朝鮮人が略奪や政治的復讐のため家々に火を放っていると思いました。

小職には放火があったともなかったとも証明する手立てはありませんが、
欧州人を含む事情通の多くは、
そう住民が思い込んだのには根拠が全くないわけではないと考えていました。

閣下の最も従順で謙虚な奉仕者であることを名誉に思い、最高の敬意を表して
        在京イギリス大使 署名
ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド閣下(注・当時の英国首相兼外相)」

「小冊子本文」

「日本での朝鮮人虐殺

(注・表紙には「北京総領事館から匿名で郵送されてきた」
と手書きで書き込まれている)

日本では大震災のさなかに、
多数の罪なき朝鮮人が
何の挑発行為や大義もなしに
血に飢えた日本人によって虐殺された。

日本人が犯した恐るべき残虐行為の証拠は、以前は入手できなかった。

日本政府が生き残り朝鮮人による調査を一切禁じたからだ。

此の問題は脅しと甘言によって闇に葬られた。

それでも、
一部の朝鮮人は勇敢にも危険を冒して手の届く限りの調査をし、
悲惨な出来事を以下のように描写した。

1923年9月1日ごろ、
日本政府は一般大衆のほか、
兵士、
警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し
「朝鮮人の老若男女を街角で見かけるか、家の中、
あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ」と指示した。

無線で命令が出されるや、
悪魔のような殺し屋が、
銃、刀、火かき棒、斧、棍棒など利用できるあらゆる武器を手に、
四方に散らばり
街頭や家々、森、川船、丘陵地帯などで朝鮮人狩りをした。

  痛ましい殺戮

騎馬兵は
あらゆる方角から朝鮮人を追いかけ、
銃撃を加えて皆殺しにした。

このようにして殺された人数は次の通りである。

ハダ(羽田?)2000、
隅田川沿い400、
品川300、
サキダマケン(埼玉県?)駅400
 
警察は保護を名目に朝鮮人を追い回し、
警察署の敷地内にある(浮浪者のために仮設された)小屋に集めた。

そこでは朝鮮人は空腹の狼に追われた羊のようなものだった。

この罠で
警察は朝鮮人多数を捕らえ、
他の人々に気づかれないように
夜か早朝に殺害した。

このようにして密かに殺された人数は次の通りである。

亀戸警察200、
上野警察150、
ナガセンド警察(中仙道方面?)100、
ヅルミ(鶴見?)警察100、
クマカメイ(駒込?)27

しかし最も痛ましい殺人は、
いわめる自警団や民衆によって行われた。

「朝鮮人だ、朝鮮人だ」と叫び、朝鮮人攻撃に加わった。

彼等は朝鮮人を電柱に縛りつけ、
眼球をくり貫いて鼻をそぎ、
腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした。

彼等は朝鮮人の首を少し長い縄で縛り、
車の後ろにくくりつけて走らせた。

彼らは朝鮮人の手を鎖で縛り、
道を裸で歩かせ、
犠牲者が命令に反抗すると棍棒で殴って殺した。
非常に野蛮な女性殺害の方法を詳しく記述するのは品を欠くことになる。

例えば、
彼等は女性の両側から足をつかみ、
日本人的なさまざまな残忍な方法で、
笑いながら、
「女性を殺すのは面白い」と言いながら体を引き裂いた。

  邪悪な非難

日本人は
朝鮮人に略奪や暴動の責任がある
と虚偽の非難をした。

しかし、
常識を働かせればこれが真実でないことが分かる。
朝鮮人は大震災の前、
警察に激しく監視され、
朝鮮問題を話し合うために集会を開く権利をずっと否認されていた。

抑圧された民族が日本政府に逆らって暴動を起こすことは全く不可能であり、
とりわけ日本に住む一握りの朝鮮人にとってはそうだった。

火事は地震の結果生じたのであって、ほぼあらゆる場所に広がった。

延焼しなかった場所は、
一般国民だけでなく警察と憲兵隊が監視した。

火をつけたのは朝鮮人だろうか。

警察は朝鮮人が悪事を働く機会を与えただろうか。

1923年9月6日に
日本政府は、朝鮮人殺害を中止するよう指示を出した。

自らの政策が犯罪的なのを承知している日本政府は、
この問題を闇に葬るため、
さまざまな計略を試みた。

警察と憲兵隊は殺人への関与から一転して
「朝鮮人を保護しようとした」と主張した。

このニュースが世界に漏れないようにするため、
彼等は朝鮮人が故郷へ帰るのを禁じた。

世界で最も不幸な国は朝鮮であり、
最も惨めな人間は朝鮮人である。

二万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。

朝鮮人に開かれている道はただ一つ。

それは「日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと」だ。

 殺された人数と場所

青山               2人
アカヤマベッショ(?)     11人
千葉市             37人
干葉県             429人
船橋              37人
グヤマ(?)          60人
ゴヤマ(小山?)        2人
ゴマツ県(?)         29人
ゴダマ県(?)         40人
ハダ(羽田)          2000人
深川              50人
ヒロヤ(?)          7人
ホトヤ(保土ヶ谷)       31人
八幡橋             103人
クマヤ寺(?)         144人
群馬県             33人
亀戸              350人
クマゴメイ(駒込?)      27人
川崎方面            153人
ミナミカワ(?)ほか      62人
向島              43人
軍縫製工場           13人
ネイキシ根岸?)        35人
ナガセンド(中仙道?)     120人
長野               8人
ナリダ(成田?)        29人
オチマ(大島?)        182人
隅田川             271人
品川              300人
サキダマ県(埼玉県?)     340人
新宿、芝、品川造船所      57人
品川駅             153人
シミツ(?)飛行機置き場    27人
シナガワ県(?)       1795人
シダヅキ島(?)        85人
品川橋             5OO人
シンゴ・ヤスチョウ(新子安)  10人
月島、柳橋           26人
東海道線方面          18人
上野              73人
ワガマゴ(我孫子?)       3人
ヤチオ(八千代?)、馬橋     5人
ヤマデイ(山手?)ほか     73人
横浜              300人
ワジュマバシ(吾妻橋?)    81人
ワラガワ(荒川?)       117人

合計              8271人

以下に記する人数と場所は、
発行部数の多い日本の雑誌「中央公論」の編集長、
吉野博士によって確認されでいる。

遺体発見              7861人
遺体未発見             3246人

警察による殺害         577人
騎馬隊による殺害        3100人


合計             1万4784人

(注・「吉野博士」は吉野作造を指すと思われるが、
吉野は「中央公論」の編集長ではない。
また、吉野がまとめた被殺害人数は先に紹介したとおり2613人である)

総計             2万3O59人
      作成:朝鮮独立運動の朝鮮人  l924年3月  
(原文の総計は2万3059だが、2万3055の計算間違いと思われる)

 巧みな宣伝戦

文書はイギリスの北京総領事に持ち込まれ、
横浜から在京イギリス大使の手元に届いたものである。

同じ手口で彼等は諸外国の外交官に同一の小冊子をばら撒いて、
日本攻撃の宣伝材料とした。

その際の数字の雑駁な算出については
先の調査①~③において
すでに述べたので重複を避け割愛する。

ただ彼らがいいつのる殺害方法の残忍性こそ、
日本の歴史にはないもので
中国から朝鮮半島へ渡った独特の蛮習だということを確認しておきたい。

それに関しては「第二章」で閔妃の追っ手によって殺害された
金玉均(キムオッキュン)への記録で述べた通りである。

そこで、
改めてこの謀略小冊子の特殊な問題点を挙げておけば、
おおむね以下のようなことが考えられる。

一、
朝鮮人の諸団体もほぼ認めている当時の東京付近の在日朝鮮人総人口、
一万三千人をはるかに超えた人数が殺されたことになる。

それとも、
当日だけ関西方面からやってきて人口が増えていたとでもいうのだろうか。

そうだとすれば、
わざわざ上京した朝鮮人の目的はテロ、ゲリラ行為への参加しか考えられない。

二、
この小冊子の本文(「日本での朝鮮人虐殺」)部分と「被殺害数字」は
他の関係資料、例えば「現代史資料6」などにも掲載されている。

だが、
肝心な外交文書の所感については全く無視しており、
この小冊子がどこへ郵送され、
その国がそれをどう判断したのかについては故意に消去している。

このことは、
こうした小冊子そのものの存在が
いかに虚構に満ちた反日宣伝用のものでしかないかということを
証明するものだろう。

三、
こうした虚構の数字が事実ででもあるかのように独り歩きする現象は、
大震災から十四年経って起きた
いわゆる「南京大虐殺」に関する反日宣伝工作に酷似して見える。

欧米の特派員リポートや宣教師の証言が「事実」としてまかり通ってきた。

八十六年を経た今からでも冷静な歴史の検証が見直されるべきだろう。

ところで、
こうした宣伝資料には必ずといっていいほど
日本の警察が率先して住民をあおり、
朝鮮人を殺害した元凶であるかのような記述がある。

警察や、
戒厳令によって出動した兵士、
民間の自警団は、
「善良な」朝鮮人を殺害したことは決してあり得なかった。

誤認や過剰防衛による殺傷と判断された者は、
しかるべき裁判を経て起訴された。

放火や強盗、強姦など暴虐の限りを尽くす同胞を目の当たりにして、
いわれなき追及を受ける災難にあった朝鮮人が多かったことは確かだろう。

そのために朝鮮人なら誰もが
一旦は不快な追及や被害をこうむった可能性は否定できない。

だが、
それは朝鮮独立運動を自己目的化したテロ集団があったためであり、
あの大震災の災厄の中ではやむを得ないことであった。

そんな中で積極的に朝鮮人を保護し、
彼らの生命の安全を保障するために
自警団に理解を求め奔走した多くの警察官の姿もあった。

本所被服廠跡で
避難誘導に心血を注いでいた所轄の相生警察署山内署長もその一人である。

付近の朝鮮人の住人多数を混じえた避難民の安否を気遣っているうちに
彼自身の姿が見えなくなった。

九月四日の深夜、
山内署長の所持品が焼け跡から発見され、
焼死したものと判断された。

また、
横浜市鶴見区の鶴見警察署長大川常吉は、
「朝鮮人たちが大挙して略奪や暴行を繰り返し、抵抗する日本人を殺した」
という情報が飛び交う中、一般の朝鮮人多数を保護した。

普通の朝鮮人が自警団から暴行を受けそうになるのを回避するため、
彼は約三百人の朝鮮人を署内に収容し感謝されている。

イギリス大使館などにばらまかれた小冊子には、
「警察は保護を名目に朝鮮人を追い回し、
警察署の敷地内にある(浮浪者のために仮設された)小屋に集めた。
そこでは朝鮮人は空腹の狼に追われた羊のようなものだった」
と書かれているが、
これこそ宣伝工作のために嘘で固められた内容だった。

  トリック数字の政治的背景

ここまでみてきた「虐殺」数字は、
最大二万三千人を筆頭に、
二千六百十三人の吉野作造説、
朝鮮同胞慰問班調査の二千六百七人
(彼等は五千人以上という説も併記している)説、
「独立新聞」によれば六千四百十九人証まであり
ばらばら、さまざまである。

要するに彼等にも調べる手だてはないのだ。

そこで、
反日戦略に役立つのであれば、
いかなる数字でも構わないから
宣伝に使おうというのがこの結果によくあらわれている。

こうした虚構が積み重ねられ、
大前提として語られてきたのがこの八十六年である。

既に述べたように、
影響力のある作家の作品や評伝としてこの虚構がまかり通ってきたわけである。

こうした膨張する数字のトリックは、
政治利用され、
反日感情を盛り上げる最適な素材とされてきた。

数字だけの面からすべてを推し日重ることはできないかもしれない。

だが、ここまでみてきたように「朝鮮人虐殺」というのは
まぼろしであることがほぼ実証されたと思う。

政府発表の被殺害認定数字は二百三十三人である。

六千七百九十七人からの収容保護人数とこれを足して、
総在日人数から残りを割り出せば
二千七百七十人が震災による
死者または行方不明者ということになる。

この二千七百人余の中に、
テロ行為を働いた朝鮮独立運動家と、
彼らに煽動され付和雷同したため殺害されたと思われる人数、
八百人前後が含まれることはすでに述べた。

それを「虐殺」とは決していわない。

国民生活の安寧を危機に晒すテロ行為、ゲリラ部隊と認定するのが常識である。

つまり、いわゆる「虐殺」は無かったのだ。

そうしてみれば、
芥川龍之介(当時三十一歳)や
井伏鱒二(同二十五歳)や
内付鑑三(同六十歳)のとった道が
いかに筋の通ったものであるががはっきりと分かる。

 嘘写真と嘘コピー



兵士がつかの間の休息をとる傍らで朝鮮人とおぼしき一団が
やはり横になって休んでいる一葉の写真(ぺージ写真①)がある。
場所は定かでないが、
馬が見えるので騎兵が歩兵部隊に同行していたことがうかがわれる。

騎兵による車両の不足や伝令、通信、斥候巡察等の補助能力は
おろそかにできない。

小銃を立てかけ、兵は昼食でもとっているようにも思える。

朝鮮人らしき人物たちは、
さすがに疲労の色は隠せないものの、
配給を受けた毛布を掛けるなどして各人自由に休んでいる。

だが、
この写真に付けられている次のようなキャプションを読めば
誰もが偶然とするだろう。

「朝鮮人を迫害する武装具たち」
(現代史の会編「ドキュメント関東大震災」)

同書の次ぺージなめくると、
習志野収容所から東京へ護送されながら歩いている
朝鮮人の写真(写真②)がある。

その写真キャプションは、
「騎馬兵の監視のもとで習志野から東京に引きあげる朝鮮人」
 と書かれている。

同ぺージの下方には、
勤労奉仕をしていると思える労働者の写真が上下に二枚掲載されているが、
その説明書きは次のようになっている。

「警視庁目黒派出所で朝鮮人(上)と
罹災地の復旧作業に強制労働させられる朝鮮人(下)」

これらの写真は、
前後の本文内容とは全く無関係に挿入されており、
ただ単に朝鮮人が不当に収容されて迫害を受けたこと、
さらに習志野往復をあたかも「死の行進」でもさせられたかのように表現し、
解放されるや強制労働に駆り出され迫害されたのだと、
見る者の目に印象を刻み込む宣伝の巧みさがうかがえる。

こうした「朝鮮人虐待」写真はどの参考文献でも多くの震災写真や、
日本人被害者の一般的な写真と混在させて挿入されている。

その組み入れ方はいかなる資料本も同じで、
大震災という突発的な流れの中で、
あたかも当然のように「虐殺」が起きたかのような印象を与える。

そうした写真とキャプションが繰り返されて、
同じものが幾度となく登場するのが関東大震災のプロパガンダの特徴なのだ。

重複される映像は、印象を一層強める効果をもたらす。

繰り返し見せることで
謀略宣伝の効果を上げてきた最も分かりやすい例を示そう。

多くの自虐的な参考文献で幾度となく使用されてきた写真である。

いかなる死体写真も見る者に対して、
人間の尊厳を考えさせると同時に
いい知れない人生の非業を感じさせずにはおかないものである。

とりわけ災厄による死者のむごたらしい末期を目のあたりにすれば
なおさらのことだ。

死体写真はそれだけですでに正常な視覚を狂わせかれない素因を抱えている。

川に浮いた三枚の死体写真(写真③)に
次のようなキャプションが付せられている。

「暴行虐殺され、川に捨てられた朝鮮人の死体。
このとき犠牲となった朝鮮人の数は、

お定まりのような「20000人」という架空の数字に関してはもう触れない。

 同じ写真(写真④)が類書にも掲載されている。

そのキャプションではこうだ。
「永代橋でみられた惨殺死体。くいにしばりつけられている」

さて、これらの死体から判断できることは川に浮いていることだけである。

おそらく隅田川であろうとは想像できるが、
永代橋だと特定するのさえ困難だろう。

ましてや、死体が朝鮮人であると断定するのは不可能ではないだろうか。

写真④の手前の二人は親子のようにも見える。

紐状のようなものが体に捲きついていることは分かるが、
それが杭に縛られているための紐なのか、
もともと着物に使われていた帯や細なのか、
また、
流れてきた他の紐状のものが死体に絡み付いているのかは判断しかねる。

くいに縛られていると説明文はいうが、
死体が単にくいに流されて寄りかかっているに過ぎないとも思える。

ちなみに、
隅田川の橋の中で最も惨状を極めたのが永代橋だった。

橋は焼けて崩れ落ち、人々が雨のように川中に落下していった。

川面一杯になった死体の間に分け入り、
地上で殺害した朝鮮人を担いで水中に潜って
橋げたのくいに縛ったとでもいうのであろうか。

隅田川では、
大量の木材や家屋の焼けた残廃物、トタン板、鉄骨類などが
無数の死体とともに押し出され、無惨な様相は数日間以上続いていた。

その処理に市の衛生局が
必死の努力を繰り返したことはこれまでに述べたとおりである。

当然死体から離れた帯紐類が他の死体にもからむことは考えなければならない。

川に浮いている死体を、
惨殺されてくいに縛られた朝鮮人だと特定する根拠は、
誰も持ち合わせない。

殺害されたという証拠が
万一これらの写真から認定されたと仮定しても、
死体の国籍はなお不明である。

隅田川の死体は腐敗も進んでおり、
伝染病等の衛生問題も発生しかれなかった。

市当局は可能な限り検視の上、人手を集めて順次焼骨した。

こうした写真を繰り返し使い、
嘘のキャプションを付けて惑わすことは情報活動の基本だといわれている。

朝鮮独立運動家グループが配布した謀略資料が、
今日までも見直されずに使用され、
反日運動のバネとしての役割を果たしてきたのだ。

  保護と自主的奉仕

すでに述べたように、
政府は東京市内で避難していた朝鮮人を各所に保護し、
かつ一万五千人まで収容可能な施設、食糧、医薬品などを
習志野の兵営内に確保した。

罹災朝鮮人が住む家もなく、
また無辜の朝鮮人に無用の被害が及ぶのを避けるため保護、
収容したのである。

東京市内各所に散在しながら震災にあった朝鮮人たちの大部分は
着の身、着のままで焼け出された。

もちろん、
日本人の多くも同様であったが、
親類縁者などもなく頼るべきあてとてない彼らに対し、
政府も軍も人道上から一刻も看過すべきではないと判断し、
こうした措置をとった。

ところが、
朝鮮独立運動家たちはそうした日本側の好意を逆手にとって
虐殺人数にこれを加算したり、
強制連行して自由を奪ったと声高に叫んだ。

六千人から二万人という虐殺デマ、
さらには習志野へ一万二千人の「強制連行」したなどという嘘が宣伝された。

だが、
実際に習志野に収容できた人数は
三千百六十九人であったことは先に説明したとおりである。

さらにその待遇についても、
誤解のないよう繰り返しになるが再確認しておく。

習志野往復は徒歩以外に手段はなかったが、
これをもって運動家たちは虐待だという。

この大震災のさなかに、
彼らだけを優遇するためにトラックなどを用意することは不可能である。

罹災者への食糧運搬、死体の搬送、倒壊家屋の処理、糞尿運搬などに使用する
トラックさえままならない事態だった。

収容された朝鮮人には日本人の被災者さえ手に入りにくい
軍による炊き出しの握り飯が配給された。

毛布、衣類も一人二枚ずつ給付され、
怪我人については軽傷者は軍医の手で施療され、
重傷者は赤十字病院へ送られ手当てが施された。

この措置を運動家たちは不当監禁だと唱えて騒ぎを大きくし、
はなはだしいものは夜陰に乗じて銃殺したとまでいいふらす始末だった。

だがこれなども事実無根、人の情けを仇で返す所業というものだ。

震災が落ち着いてきてからは、
収容者は漸次青山のバラックなどへ移送された。

これは、ほぼ九月十九日から開始され、
明治神宮外苑に朝鮮総督府が政府から借り受けた急造バラック九棟
(一棟に約二百人ほど収容できる)に分宿させた。

これより以前、
九月十日ごろには民間主導の収容活動が開始されていた。

第四章で紹介した新聞記事と重複するが、
背景として重ねて説明しておきたい。

日本橋に日鮮企業株式会社というのがあり、
ここを朝鮮人労働者の「相愛会」が借用して多数の労働者を収容した。

この日本橋収容所では朝鮮総督府と政府の管理の下で
食糧、衣料等の配給がなされた。

朝鮮人労働者は
政府の厚意に感謝、
道路復旧工事などの社会奉仕に自主的に従事した。

政府が主唱する朝鮮人宥和対策の是非はともかくとして、
新聞各紙で九月十一日に紹介されたのがこのケースだった。

二日後には続報が出た。

焼け跡片付けには百五十人からの朝鮮人が作業に出て働いていたが、
十三日からは三百名に増加されたという。

彼等は朝鮮人への誤解がこれで少しでも解かれればいいと話している、
という記事だった。

朝鮮人の勤労奉仕がことさら記事になるのは本来奇妙なことである。

それだけ国民の間で一部朝鮮人への不信感が増大していたからに他ならない。

もとより、
日本人は全員が無償の奉仕活動に明け暮れていたのである。

先に述べた写真キャプション、
「罹災地の復旧作業に強制労働させられる朝鮮人」
と説明された写真が
果たして「強制」なのか「自主的」なのか判断は誰にもできないだろう。

また、
写真に写っているのは朝鮮人だけであろうか。

日本人が一緒になって共同作業をしているようにも見受けられる。

彼らが好んで使う「強制労働」「強制連行」といった言葉は、
自ら自身の同胞が自主的に行っている行為を侮辱する結果にもなる。

こうした嘘を幾つも重ね合わせ、
しかも何度となく繰り返し偽りの史料を使う事によって
歴史の改竄が行われてきたのである。

 「帝都復興」の序章

九月中旬までに市当局はほぼ死体の焼却処分を完了した。
瓦礫の下敷きになったまま発掘作業がはかどらないため、
圧死者が各所にまだ残っていたものの、
九月下旬には復興の槌音(つちおと)が帝都に響き始めていた。

先頭に立つのは内相後藤新平である。

後藤は震災直後、
まだ焦土に死体がごろごろしている時に鶴見祐輔に電話を掛けてこういった。

「おい、すぐにビアード博士に電報を打って、東京へ来るように言ってくれ」

鶴見祐輔が
後藤の長女愛子の婿である。

アメリカ留学の経験から、著名な学者ビアード博士と以前より親交があった。

鶴見はさっそくニューヨークにいるビアードに至急電を打った。

「岳父の後藤新平が帝都復興のために
先生のお知恵を拝借したいと申しております。
なるべく早く東京へお越し下さい」

ビアードからの返信も早かった。

「十月初旬には行けると思う。まず、新街路を設定することだ。
その前に建造物を作ることは絶対にしてはならない。
それに鉄道ステーションを統一せよ」

かつて後藤は東京市長の折に、
八億円の予算を計上した都市計画案を提出して
議会に反発を食らったことがあった。

だが、今回は大震災の復興である。

四十億円計画をまず出し、
それが否決されるや二十億円、
さらに七億円まで引き下がって復興予算を確保した。

「大風呂敷」といわれる所以である。

  「上海仮政府」の謀略

数字のトリックと謀略宣伝がいかに巧みに展開され、
それがいわゆる
「朝鮮人虐殺」という歪められた歴史改竄の原因になっているという事実を
ここまで述べてきた。

朝鮮独立運動家と、
南下する社会主義の波に翻弄された大正時代の苦難がそこからは惨み出てくる。

揺るぎない前提として書かれ続けてきた虚構への反論も
いよいよ最終段階に人る。

大正時代の苦難といったが、
そこに象徴される事象は、
摂政官となった皇太子裕仁殿下にのしかかってくる連続した事件として
たち現れる。

それらの一つ一つが、
関東大震災の問題を一層複雑にさせ、
国家の基盤に根本的に関わる重大事でもあったのだ。

摂政宮を暗殺しようとまで
画策したテロ集団の凶行と大震災は機を一にし日本を襲う。

そうした国難を回避するための戒厳令であってみれば、
「朝鮮人虐殺」などといわれる筋合いは微塵もない。

その意味では「虐殺はなかった」し、
あったとすればそれは「虐殺」ではなく、
国家の自衛権行使だといっていい。

その実例を挙げて検証しておきたい。

さて第三章の後半に、
月島へ逃げたある罹災者の談話を紹介したが、
その証言者はさらに意外なことを口にしていた。

二百十日には必ず暴風雨が襲来するから、
それを待ち構えていて爆弾を炸裂させれば要職にあるもり多数を殺害できる、
と捕えられた朝鮮人は現場で告白したという。

その朝鮮人は越中島にある糧秣廠を爆破し、
膨大な数の避難民を殺害した犯人である。

朝鮮人は続いて次のように喋ったのち、
自警団と在郷軍人などに身柄を拘束されたという。

「暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし、
機の到来を待ち構えていた折柄大震災あり、
これで御大典もどうなることか判らないから
この地震こそは好機、逸すべからずとなし此処に決行したのである」

この証言によれば、
要するにこの朝鮮人テロリストの目標はそもそもこの秋、
十一月二十七日に予定されていた御大典だった。

震災発生直後のこのとき、
まだ摂政宮と久邇宮良子女王の御成婚の日取りは変わっていなかった。

だが、
彼らとしてはこの大震災となっては予定変更もあろうから、
台風は来なかったがもっと凄まじいものが来たのだから
ここで一気にけりをつけようと動いたのだと白状したというのだ。

ところで、
摂政宮を暗殺し、
挙句は日本の国体をも揺るがせ、
自分たちの独立運動の勝利に結びつけようというのが
朝鮮独立運動家たちの目標であることは、
日本の内務省をトップに布いた警備陣も把握していた。

震災以前にも全国至るところで抗日運動組織が活動し、
事前に爆発物や拳銃、弾丸などが押収され、
また資金集めのための銀行強盗が起きていたことは周知の事実である。

こうした背景が、
どんなに一般国民の心胆を寒からしめていたかは想像に難くない。

彼ら活動家の本拠地は上海である。

日韓併合以降、上海のフランス租界へ脱出して作った
「大韓民国臨時政府」、
すなわち「上海仮政府」の庇護のもとにテロリストは生き延び、
目標達成のため日本国内への侵入を繰り返し、時機をうかがってきた。

その実相は当時の新聞記事からも顕著に分かる。

震災前後に絞り、見出中心に拾っておけばおおむね次のとおりである。

「神戸新聞」に掲載された記事

「不逞の徒と気脈を通じ内地に潜める魔の手/
在京(注・京阪地区の意)鮮人七百余名中、上海仮政府に縁ある者二割」
(大正九年八月二十七日)

「怪鮮人は春画を売って上海仮政府へ走らうとした不逞の徒」
(大正十三年七月二十七日)

「神戸又(ゆう)新日報」に掲載された記事

「不逞鮮人崔の自白から判明した事実/
上海仮政府の計画も明察し、内地在住の一味も知れた」
(大正十年十一月十日)

「怪鮮人密書事件の黒幕に妖美人、
上海仮政府重要委員を父として鄭(てい)を愛人とする金玉華/
李、鄭は近く警視庁護送」
(大正十二年四月二十五日)

「怪鮮人の行動/
大阪の同志等と結んで上海仮政府の密偵及主義宣伝/
旅費調達に裸体写真を」
(大正十三年七月二十七日)

「九州日報」に掲載された記事

「友禅職工に化けた不逞鮮人の一旗頭/
上海仮政府の隠密/
同志の統合に失敗し何れへか姿を晦(くら)ます」
(大正十二年二月二日)

(京都大学人文科学研究所データベースで検索。
主に西日本地域の新聞が対象になっている)

新聞記事の第一報の段階なので、
その後の事件捜査と結末がどうなったのかは判断できない。

すべてがテロ犯人と断定することは必ずしもできないが、
概略をみるだけでも、
いかに上海仮政府との関係が緊密に繋がっていたかは十分知れる。

ところで、
こうした上海仮政府と地下水脈で通じていたテロ集団にも
路線をめぐる党派争いがあった。

その結果、
集団はいくつかの分派に分裂しながら、
個々にテロ計画を練って日本内地襲撃を狙っていたものと考えられる。

だが、いずれの分派も目標日の第一は摂政宮の御成婚当日、
それも摂政宮そのものを目標としていた。

ところが分派それぞれの事情から、
資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで
統一を欠いていた。

そこへきて、
テロ集団さえ了想だにしなかった大震災が
準備途上の九月一日に起きてしまった、
というわけで彼らにも想定外の混乱が生じたと考えられる。

  やはり標的は御成婚式だつた

朝鮮人テロリストが
「目標は御大典だった」と自白していた例は枚挙にいとまがないが、
その具体例をもう少し紹介しておこう。

談話はいずれも現場の生々しさを伝えている。

今日の時点で読めば自警団などの行為が非情にさえ思われかれないが、
震災当時の実態を知らないでセンチメンタルな批判はできないだろう。

「私は本所の家に帰る途中、
道成橋で多数の人が鮮人を捕らへて居るのを見ました。
その人達は盛んに鮮人を竹槍で責めて訊問して居ましたが
その鮮人は苦しさに堪へず到頭自白しました。
その話に依ると鮮人達は東宮殿下御成婚式の当日に
一斉に暴動を起す事を牒合(ちょうごう)して
爆弾等をひそかに用意して居たが
この震災で一斉に活動したのだと云ふ。
また二日には之に関する協議会さへ開く予定があったと云ふ。
彼等には又誰か後押はあるらしい風であったが
死ぬ程責めても到頭吐かなかった」
(青木繁太郎談、「北海タイムス」大正十二年九月七日)

「ちょうど昼食をしようとする処でした。
始めは上下動に揺れ次第に水平動になりましたが、
とても立っていられぬので庭に出ましたが、
他区に比すると極楽だと凡ての言はれた小石川でこうだったのです。
とにかく罹災民は小石川方面に集まる。
大抵の自動車も罹災民を乗せて此辺に集まるので
その雑踏は言葉に尽し切れません。
一日夜、植物園にもいってみましたが、
ほんとうに避難民で一杯で、
一番困るのは排泄物は凡て居たままなので
その臭気の程は形容の言葉がありません。
二日の朝から昼にかけて非常に石油の臭ひがしました。
此頃、小石川辺では鮮人が団体を組んで来るとか爆弾を投て、
焼き払ふ計画を立ててみるとか、
(略)生きてゐる心持がありませんでした。
私共も一所になって捜索の結果、
私の家のしかも附近の宮様の原で爆弾一個を発見しました。
私の乗った汽車は
途中で列車の下より爆弾を抱いた三人の鮮人を見出して殺しましたが、
(略)鮮人は何れも多大の金を持ってをり」
(北大予科二年生、杉山又雄談、「北海タイムス」大正十二年九月八日)

「私が田端で不逞鮮人の巨魁らしき壮漢が
軍隊に取押へられて自白して居るのを聞くと、
彼等は二百十日を期して蜂起するの計画を樹て
八月二十八日に銀行や郵便局の預金を悉く引出し準備した。
若し二百十日が静穏であったならば、
今秋の御盛典を期して行ふ事に決して居たが、
あたかも震災に乗じて活動したものであると自白したが直に銃殺された」
(鉄道機関手、平田鉄談、「北海タイムス」大正十二年九月八日)

  社会主義者との結託

もとよりこうした大胆な計画と資金調達は
組織力や上層指導部なしに実行できることではない。

いかに朝鮮独立運動の志が堅固といえども
満州北辺の間島(カンド)に根を張る抗日パルチザンの主力が、
ウラジオストックから北京、
さらに南下して
上海を結ぶルートを自在に行き来するのは容易なことではない。

その上、
上海から警備の目をくぐって
北九州や神戸から日本内地への上陸を繰り返す実力は並大抵ではできない。

その裏に有力な支援組織があると考えるのが当然だ。

黒龍会の主宰者内田良平が、
震災時における朝鮮人の謀略をいち早く告発し、
さらに、
例の奇妙な符号の解析にも奔走し政府に訴えたことは先に述べた。

その文中で内田良平は、
朝鮮独立運動家の背後にいるのは
社会主義者たちであると指摘していたことは
第五章ですでに紹介したとおりだ。

内田は、
「露西亜が日本の赤化運動に志し、
日本の社会主義者及び鮮人等を煽動し、
及び日本の社会主義者等が之に共鳴して
常に妄動を志しつつありたること、
及び朝鮮の高麗共産党等が金品の供給を得て
之に操縦せられつつありしは事実にして、
又社会主義者と不平鮮人とは暗々裏に其の声息連絡を通じ居たるも事実なり」

と述べたあと、
そもそも九月二日がかつてべルリンにおいて
第一回国際無産階級青年大会が開催された重要な記念日であることに加えて、
日本では二百十日に当たり、
破壊活動を実施するには最適の日として彼らは考えていたのだ、と続ける。

その隠密情報活動として
彼らは、朝鮮人の飴売り業者をうまく利用したと内田は指摘する。

「其の飴売り業者は
東京及び近県各地方に在る者ほとんど挙げて之に参加し
(略)壮年男子は勿論、婦人少女に至る迄飴売りを為すの傍ら、
市内の模様を探りつつある」
ゆえに、
彼らが働いた凶暴な行為は手配が行き届いていた成果だとしている。

飴売り業者に姿を変えたゲリラの隠密活動は、
すべて社会主義者による策謀であると内田は主張した。

彼の分析では、
テロの実行日は御成婚式というより、
ボルシェビキの記念日(十一月七日)が危険だと判断していたようだ。

だがいずれにせよ、
大集団がいくつかの分派に別れ、
それぞれが我先に功名を競っていたことに変わりはない。

  「放火は同志が革命のためにやった」

朝鮮半島において
大震災の結果は大衆にどう受け止められていたのか、
その調査結果は朝鮮総督府警務局が把握していた。

時の警務部長丸山鶴吉は内務官僚の道を順調に昇り、
日韓併合後の不安定な朝鮮へ赴任し、
警備の責任者の席に就いていた人物である。

丸山は、
内鮮宥和策に政策転向しつつある中で積極的に朝鮮人の人心掌握に努め、
その地位向上に成果をあげたとして
多くの朝鮮人から支持を受けていたとされる。

在任期間は大正八(一九一九)年から十三(一九二四)年までであった。

その丸山の手による調査報告書ですら、
社会主義の強い影響が蔓延していたことが詳細に報告されている。

まさに日本にとっては危機的といえるほど、
四囲から社会主義に包囲されていた状況がよく分る。

主要な箇所を中心に概略を見てみよう。

「従来日韓併合記念日
(注・併合は明治四十三年八月二十九日の公布による)
に際し日本人の意気揚々たるものあるに反し、
朝鮮人は祖国喪失の悲哀を感じ快々として楽しまざりしが、
今次の震災は
正反対に朝鮮人は楽観し、日本人は悲観し居れり。
蓋し強暴日本に対する天の責罰なり云々と洩し、
社会主義者及これに類するソウル青年会、
労働連盟会、
朝鮮教育協会、
天道教等は帝都の大惨禍及山本総理の暗殺説等を吹聴し、
這回の異変は之偶然のことにあらず日本革命の象徴なり。
近く各地に内乱起り、現在の制度は改革せらるあるべし」

朝鮮全土の労働者団体系の感触は、
すべて日本内地で同志による暴動から内乱へ、
そして革命への道を望んでいる様子が報告されている。

社会主義の極めて強い影響が及んでいたことの証明といえる。

九月六日から九日ごろまでには、
内地における朝鮮人によるテロ情報が現地にも入ってきた。

放火、
強盗、
強姦、
殺人、
井戸への毒薬投入、
爆弾投擲など、
震災に乗じた凶暴行為の報せを聞いた在鮮日本人たちは、
当然激しい怒りを表した。

これまで震災には快哉を叫んでいた一般の朝鮮人も、
さすがに同族の非人道的暴挙に対しては忸怩たる思いに変わり、
世界各国からの非難を意識し始め、
大勢に順応し
罹災難民救済慰問金の募集に参加する者が増えたとも報告されている。

だが、
過激な労働運動家の集団は全く違う驚くべき反応を見せた。

「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、
今次の震災は地震の損害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる模様なるが、
火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり。
我等は此の壮挙を喜び、
時機を見て吾人も活動すべく期待し居りたる口(一字不名)
戒厳令布かれ遂に其の目的を達するあたはざりしは遺感なり
と同志間にて語り合ふ者あり」

極めて重要な史料であろう。

社会主義者たちとそれに煽動された者が
「放火こそ我が同志の壮挙だ」
と喜んで叫んでいたというのだから、これ以上の真実はない。

さらに、
震災地における朝鮮人の安否の報告が届いて、
約六千人の保護された氏名が新聞に掲載された。

すると当初生存を気遣っていた者も皆生きていることが判明し、
一斉に安堵の声が広がったという。

つまり、
六千人とは前章で示したグラフにある収容者の総数
(厳密には六千七百九十七人)のことである。

そうであれば「虐殺」と強いて裁定されるのは
過剰防衛に認定された二百三十三人のみである。

残りは不幸にも震災で落命した者
(身元不明者を含む)、
その他は戒厳令下に凶行を働いたテロリストの死者というわけである。

一方、上海の抗日組織「義烈団」の団長
金元鳳(キムウォンボン)は
北京に滞在していたが
九月九日、震災による日本の民心動揺を好機ととらえ、
部下を集めて天津から東京へ向わせたとの報告が上がっている。

これに関連して、
「義烈団」は直接行動の用意に入り、
保管していた爆弾五十個を安東(アンドン)
(注・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)
に向け発送したという情報が警務局に届いていた。

「俺は日本の天皇、皇太子を爆弾投擲の最重要なる対象にしていたのだ。
それで、爆弾が手に入ったらいつでも機会を見て便用するつもりだった。
できるだけ日本の皇太子の結婚式に間に合うよう計画を進めてきた」

もはや説明は不要であろう。
かくもはっきりと朝鮮人のテロリストたちが
公然と皇太子暗殺計画を自白しているのだ。

その他、
畿多の分派に分かれたテロリストとその配下の分子が
上海などから九月(二百十日)、
十一月(御成婚式)を目指して秘密工作に奔走していた。

そのさなかに起きたのが関東大震災だった。

彼らの目標日は急遽、
震災の混乱時に変更され、
計画はばらばらになったもののテロの波は横浜を発進して
帝都を襲ったと考えられる。

 修羅去ってまだ

山本権兵衛内閣は文字通り震災処理のために誕生したような内閣だった。

阿修羅に立ち向かう帝釈天のように、
といっては大袈裟に過ぎるかもしれないが、
朝鮮人テロリストを退けつつ、
年齢若い摂政殿下の危機を救っていたのだから、あながち大仰ではない。

内務相兼復興相の後藤新平の帝都復興計画が始動し始めたのは
十二年十一月初めのことである。

ビアード博士をニューヨークから呼び寄せた後藤は、
女婿鶴見祐輔をそばに据え、
幅広い昭和通り計画、
遅滞していた地下鉄銀座線の工事再開(昭和二年一部開通)、
耐震の鉄筋コンクリート・アパート(同潤会)増産などといった
再建の花火を打ち上げていた。

事実、火焔地獄だった東京の町も目覚しい復興ぶりが目に付くようになった。

銀行の支払い猶予は十月一日を期して解除され、
経済の恐慌は最小限にとどまったし、
寸断されていた東海道本線も十月末には開通した。

道路や交通網の改修、
学校や病院の再建、
電気、水道などのいわぬるインフラやライフラインの回復、
供給が具体的に始動し始めた現状は、
国民の安心感をどんなにか増したことだろう。

ようやく自警団の必要もなくなり、
各町内では自発的に夜警が中止され、
魚河岸にも活気が戻ってきたころ、
新しい詔書が摂政宮から公布された。

十一月十日、戒厳令解除の五日前のことである。

P303~305

「あとがき」にかえて

より精緻な実証へ――「日韓併合」百年に向けて

それにしても、
なぜ近現代史を専門とする知識人たちは、
「朝鮮人虐殺」数字を根拠もなく膨大なものにし、
国家テロに立ち向かう自警団や治安部隊を
「ウルトラナショナリズムの異様な突出」(大江健三郎、第二章)
と短絡的に捉えてきたのだろうか。

もちろん
大江健三郎、
吉野作造、
松本清張、
吉村昭、
佐野眞一、
松尾尊兊(たかよし)、
今井清一、
松尾章一といった作家、歴史学者だけにとどまらないことは自明である。

一方でその文業には世評高いものがあり、社会への影響力は計り知れない。

それだけに、
嘘の数字を羅列した「朝鮮人虐殺」人数の責任は簡単には拭いきれまい。

結果、疑問の声もあがらず、八十六年が過ぎて今日に至っているのだ。

ロンドンのナショナル・アーカイブスから発見された謀略冊子では
二万三千人、
「独立新聞」は六千四百人、
吉野作造は二千六百人が「虐殺された」といいつのる。

そのどれをとろうと、
それでは震災で死んだ朝鮮人はいないことになるではないか。

この単純な疑問を解くためにいま一度数字を点検したい。

●震災時、東京には九千人(労働者六千、学生三千)の朝鮮人がいた。

●横浜ほか東京近県には三千人おり、合計一万二千人いたといわれる。
夏休みだったため帰郷していた学生が
このうち二千二百人(東京千八百、その他で四百)と推定される。
差し引き、
九千八百人が東京、横浜附近にいたことは多くの関係資料が認めるところだ。

●車と警察が収容した人数は、
習志野の三千百六十九人を初め、総計六千七百九十七人に達する。
この本籍、氏名を「朝鮮日報」が発表したら歓喜の声が上がった。
内務省が認める過剰防衛による朝鮮人の死者は二百三十三人である。

●九千八百人からこれらを引けば、残るのは二千七百七十人。
あとは在日した朝鮮人の死者、行方不明者を
どのくらいにみるかが重要問題となる。

東京の朝鮮人七千人余(九千人から帰郷学生等を引いた数)のうち
千八百人くらいが、
横浜その他では百人余が地震の犠牲になったとみるのが相当ではないだろうか。

朝鮮人だけが地震を免れるとは考えられない。

むしろその犠牲比率は高かったと想定すべきである。

被害の大きかった本所区、深川区における
震災時の対人口死亡率十五%に対して、
それを上回る二十%を乗じて算出した数字である。(六章参照)

ちなみに区部における在留朝鮮人の人口(大正十年~十二年)に関しては、
本所、深川両区以外に
神田区、牛込区、浅草区などが多かったと記録されている。

試算の結果、
二千七百七十人からこの千九百人余を引いて、
残る八百人前後が殺害の対象となったものと推定される。
(東京近県を含む)

その殺害された者はいわずもがな「義烈団」一派と、
それに付和雷同したテロリストである。

テロリストを「虐殺された」とはいわないのが戒厳令下での国際常識だ。

それでも、「虐殺」があったと主張するならば、
震災による朝鮮人死者はゼロだと証明するか、
在日人数を大幅に増やす根拠を示さなければ数字の整合性はない。

一方で、
例え二百三十三人であっても誤認、過剰防衛、巻き添えなどで
朝鮮半島から来た人々が殺害されたことは事実として認めなければならない。

幾人であろうと誤認殺害は虐殺だが、
一連の謀略数字が実証され、
より正確に記録が検証されることが大前提となるべきである。

結局、いずれの試みもなされないまま、
総計すれば
震災による朝鮮人死者が皆無になるようなトリック数字がまかり通ってきた。

それゆえ、
「朝鮮人虐殺」説の裏には過剰な謀略宣伝があった、
との結論に到達せざるを得ない。

間もなく日韓併合の日から百年になる。

これでは余震百年、
いまだに日韓の地震は治まっていないというべきだろう。

本書を執筆するにあたっては、
みすず書房刊、「現代史資料6」を特に参考にさせて頂き、多くの示唆を得た。
明記して謝意を表したい。

今後、この問題について
より精緻な実証が多くの史家によってなされ、
新たな日韓関係が構築きれることを願いつつ筆を擱きたい。

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