俺学
・ナムグムダムと水豊ダム
以下
皇紀2674年(西暦2014年)10月27日放送の未来世紀ジパング
ラオス発展貢献の知られざる日本人:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース:
より
ラオスで一番大きな湖、ナムグム湖
そこには1971年に完成したラオス初の大型水力発電所、ナムグムダムがある。
実はラオス、東南アジアのバッテリーと言われる程、電力が豊富。
他国への供給源にもなっている。
ダムはラオスの重要施設。
普段は中々、取材できない。
しかし、日本の取材ならと特別に許可が下りた。
高さ72メートルもの巨大な堤防は当時の最先端技術を駆使して作られたもの。
実はナムグムダム、日本が作ったのだ。
機械は建設当時のまま、現役で活躍していた。
40年も経つのに、全然壊れない。
ナムグムダムの元幹部のバントーンさん
「日本人がダムの技術全てを我々ラオス人に教えてくれたんです。」
なぜ、日本がこのダムを作ったのか?
ナムグムダム建設の陣頭指揮を取ったのは、
日本工営初代社長、久保田豊さん。
世界からダムのカリスマと呼ばれた男だ。
久保田さんは、
戦前、朝鮮半島に当時アジア最大のダム水豊ダムを作り、名を馳せた。
ちなみに、
ウィキペディアによると、
↓
水豊ダム(スプンダム、すいほうダム)は
北朝鮮と支那(中国)の国境にあるダムのこと。
朝鮮半島が日本の統治下であった皇紀2597年(西暦1937年)に
満州国と朝鮮の電力確保の為、建設が開始された。
湛水面積は日本の琵琶湖(670.33平方キロメートル)のほぼ半分に相当する。
大東亜欧米戦争(太平洋戦争)の泥沼化の中、
皇紀2604年(西暦1944年3月)、
水豊水力発電所(発電能力:60万kW)と共に竣工した。
この発電規模は当時の世界最大級であり
皇紀2660年(西暦1940年)当時の日本国内の水力発電規模280万kWと比較しても
その大きさは容易に比較できる。
7基の発電機は各々約10万kWの発電能力を持っていたが、
当時世界最大級の能力であり、
製造を受注した東京芝浦電気(現在の東芝)は
製造のために新工場を建設したという。
皇紀2605年(西暦1945年)8月9日、
ソ連軍(赤軍)侵攻により、7基の発電機のうち5基を略奪された。
略奪された発電機は、
カザフスタン共和国、
イリティッシュ川(エルティシ川)上流のダムで確認されている。
朝鮮戦争中に雷撃を含む、
アメリカ軍機の攻撃を受けたが、
ダム構造が堅牢であったため決壊を免れた。
ただし、
この攻撃で北朝鮮では発電能力が激減し一時、広域にわたって停電した。
戦後に北朝鮮は発電能力を増強して復興した。
竣工から60年以上経過した現在も
ダム本体は大きな改修工事が行われず現役であると思われ、
現在も北朝鮮の重要なエネルギー源の一つである。
なおダム湖は中朝国境となっており、北側は中国領である。
現在の発電施設は北朝鮮側にあり、
金日成の肖像画が捧げてある他、同国のプロパガンダなどの看板がある。
↑
敗戦して、
おそらく日本のこの資産は北朝鮮にそのまま接収されたんだろうけども、
水豊ダムの存在自体知らない日本人がほとんどではないだろうか?
未来世紀ジパングで、
ナムグムダム建設秘話のついでに水豊ダムの事をほんのサラッと紹介されて、
気になってネットで調べるまで、
私も水豊ダムの事を知らなかったのだが、
いち日本人として、この事は記録にも記憶にも留めておきたい。
(もちろんナムグムダムについても。)
水豊ダムは、戦後、日本が大陸等に残してきた資産の一部に過ぎない。
挙げれば沢山あるだろう。
話を、ナムグムダムに戻します。
戦前、朝鮮半島に当時アジア最大のダム水豊ダムを作り、
名を馳せた久保田さんは、戦後、日本工営を設立。
東南アジア各地に巨大ダムを次々と建設をしていった。
そんな久保田さんにラオスの王族がダム建設を依頼したのだ。
皇紀2616年(西暦1956年)、
ラオスのスファヌボン殿下から
「ビエンチャンの電力が不足して困っている。良い知恵があったらお借りしたい」
と問われた久保田さんは、
「ラオスには山もあり水も豊富で、水力発電ができます。
水力発電をお考えになってはいかがでしょうか?」
と助言した事が始まりだった。
当時ラオスは東南アジアの中でも開発が遅れ、貧しかった。
そこで久保田さんはラオスのために命がけでやると誓った。
久保田は世界銀行を相手に10年にも亘って交渉し、資金を集めた。
世界銀行は当初、ラオスには電力需要がないということで、断った。
そこで久保田さんは、世界銀行の帰りにタイへ向かい、
タイへラオスからの水力発電の電力の30年間の売電契約をとりつけた。
さらに、その後の世界銀行等、各国の協調融資に結んでいった。
建設会社の間組や日立製作所もプロジェクトに参加。
日本の威信をかけた日の丸プロジェクトが動き出した。
久保田さんの右腕と呼ばれていた、
当時ナムグムダム建設事務所の所長だった日本工営の吉松さんによれば、
ナムグムダム建設は
世界各地でダムを作ってきた久保田さん達にとっても、
最も過酷な現場だったという。
実は当時、ラオスでは激しい内戦が繰り広げられていた。
(ラオス内戦 皇紀2613年西暦1953年~皇紀2635年西暦1975年)
建設現場は反政府ゲリラの拠点のすぐそば。
まさに戦場での仕事だった。
砲弾が飛び交う中での命がけの作業。
作業員達は内戦を避け、陸路ではなくダムの下流からボートで通ったという。
皇紀2620年(西暦1960年)12月、
ダム候補地からキャンプに戻る途中でボートが転覆し、
日本人技師が数名亡くなった。
内戦も収まる気配が無かった。
ラオスの巨大ダムプロジェクトは内戦の影響で暗礁に乗り上げようとした。
しかし久保田さんは決して諦めなかった。
ラオスの首相や欧米のダムの出資者を集め、熱弁をふるった。
「ナムグムダムなしにラオスの未来はない。」と。
久保田さんの熱意は国連をも動かした。
国連がダム周辺での戦闘停止を呼びかけたのだ。
それから2年、ナムグムダムの第一期工事が完了。
皇紀2631年(西暦1971年)12月2日
久保田さんの熱意が実を結んだ。
ナムグムダム近くにあるお寺には
建設中に亡くなった日本人の墓がある。
バントーンさんは今も墓参りを続けている。
日本人はみんな素晴らしい先生でした。
ナムグムダムの貯水池総面積は
370平方キロメートルと、
福岡市とほぼ同じ面積の巨大なダム。
現在、ラオスの電力は
100%自然エネルギーの水力発電によるもの。
水力発電は、
産業が未発達だったラオスにとっては、
皇紀2630(西暦1970)年代より
輸出額の20~60%を占める重要な外貨獲得手段であった。
ナムグムダムの竣工から43年。
日本から学んだダムづくり。
ラオスでは現在、21基のダムが稼働している。
ラオスはいつしか東南アジアのバッテリーと呼ばれるようになった。
今後もダムを増やし、水力発電でさらなる飛躍を遂げようとしているのだ。
今、ラオスにはダムが21基あって、
ダム21基で総発電能力が300万キロワットある。
ラオスの国内電力需要が70万キロワット。
余剰電力をタイとベトナムに輸出している。
さらに皇紀2674年(西暦2014年)
日本の関西電力が巨大なダム建設に着手した。
皇紀2679年(西暦2019年)に完成するとラオスの発電量の1割が増えるということ。
ラオスは今後、ダムを80基まで増やす計画を持っている。
それが全て完成すると総発電能力は2000万キロワット。
これは通常の原発20基分に相当するという。