俺学

・バテレンによる日本人奴隷貿易

歴史というのは、
素材を基に、
客観的事実と主観的想像を駆使し、
構成されるものだと、俺は思う。

人によって認識が違ったとして不思議ではない。

戦国時代、
世界各地で、
日本人が奴隷として売買されていた事実はご存じだろうか。


ポルトガル人は、
それまでアフリカなどで奴隷貿易を営んできたが、
15世紀にアジアに進出すると
東洋貿易を独占し中国人を奴隷として買い込み、
各地に売り飛ばす奴隷貿易を始めるようになった。

1543年に
ポルトガル人が初めて種子島に漂着し鉄砲をもたらしたが、
1540年代の終わり頃から早くも日本人を安く仕入れ、
奴隷として海外へ売り飛ばす日本人奴隷貿易が始まった。

その結果
16世紀の後半には、
ポルトガル本国や
アメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも
日本人奴隷は売られるようになり、
1607年の南米ペルーのリマで行われた人口調査によれば、
当時の人口25454人のうち、
日本人の奴隷として
男9名と女11名がいたことが分かっています。

当時、
ポルトガル商人は
争って日本人奴隷をアジアで買い漁っていたという事実がある。
ポルトガル人などの白人の間では、
日本人の女奴隷は特に珍重されていたからである。
そのため中国人、日本人の女性だけを満載した
ガレオン船がマニラを拠点として、
そこからアカプルコ、ゴアを経由する定期航路を経て
ヨーロッパへと続々と売られていった。
一方、
日本人の男子も
当時の東南アジアやインドなどの植民地での
傭兵としての需要があった。

ポルトガルの植民地政策によって、
それらの拠点には城砦などの軍事施設があり、
相当数の兵士が常駐していたのである。

ポルトガルによって占領されたインドのゴアの要塞では、
度々襲ってくる原住民と戦う庸兵としても
多くの日本人庸兵が使われていた、という。

ここでの傭兵は消耗品であり、
いくらでも市場から供給できる状況にあったので、
ゴアでは白人より日本人が多く居住していた、という。

それも当時のゴアは
火薬の原料となる硝石の一大産地であったから、
採掘労働者としても
日本人の奴隷が少なからず従事させられていた可能性も
否定できないところである。

こうした日本人の奴隷は、
ヨーロッパ市場より格段に安く買い取ることが出来たため、
(それこそ牛馬以下の安値で取引されていたので)
ポルトガル人はアジア地域の奴隷貿易で
莫大な利益を上げることができたわけである。

日本人女性は奴隷商品として珍重されていたようだ。

火薬一樽で50人の日本人女性が取引されていたとされる。

その火薬はキリシタン大名などの手に渡っていた。
その火薬をもとに、
キリシタン大名や天草四郎などのキリシタンは、
最新鋭の武装を整える事を可能にした。

現在の日本の教科書では、
日本人キリシタンは一方的に迫害されたイメージが強いが、
その一方で、
日本人キリシタンが関与していたかもしれない
日本人奴隷貿易の事は何も書かない。

少なくとも、
日本人が奴隷として海外に売られていたのは間違いない。


1543年、
ポルトガル人が鉄砲を種子島に伝来したことによって、
戦場の様相が一変したのだ。

九州では、
まず島津が戦闘にこの新兵器の鉄砲を使い始め、
瞬く間に各地の大名が
鉄砲を積極的に装備するようになっていった。
鉄砲の国産化が進むまでは、
ポルトガル人商人から
高価な鉄砲も購入する必要があった。

鉄砲には弾薬が必要であるが、
その主成分である硝石は国内では入手できず、
すべて海外から輸入しなくてはならないものであった。

当時、
この軍需品の硝石は、
インドのポルトガル植民地ゴアで産出され
南蛮船で運ばれてきていた。

そのため、
軍事物資として欠かせない硝石や鉛の確保のため
九州の諸大名は、
ポルトガル人の宣教師や商人との交渉が
最大の戦略上の関心事となっていった。

もとより宣教師と商人の関係はきわめて密接であり、
相互に支援し合う特別な契約がなされていた。
宣教師が仲介するという原則の下では、
領内の布教に協力的でなければ
大名とてポルトガル商人との直接取引に参加できなかった。

イエズス会の布教活動に理解を示す大名には
軍事物資の支援を積極的に行ったし、
洗礼を受けた大名には
鉄砲弾薬の売買そのものが担保されることとなった。

たとえば
最初のキリシタン大名といわれる大村純忠は、
1563年に洗礼を受けた後、
領民を強制的にキリスト教に改宗させようとしたり、
布教を妨害する寺社仏閣を次々と破壊しただけでなく、
1580年、
長崎をイエズス会に寄進するほどの
強固な関係をもって自らの勢力を拡大しようとした。

また
当初はキリシタンを迫害していた
有馬晴信も竜造寺軍に攻め込まれ劣勢であったが、
イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノによる
鉛、硝石などの軍事物資の提供によって敵軍を斥けると、
それに感謝して
1580年に自ら洗礼を受けて
「ドン・プロタジオ」という洗礼名を持ち、
それ以後はキリスト教徒を保護するようになった。

そのようなこともあって
九州各地の大名は領内に良港を用意し、
ポルトガル船を招き入れ武器弾薬を手際よく入手するために、
直接取引を一層期待するようになっていった。

そうした南蛮貿易を介した
巧みなイエズス会の宣教活動によって、
九州ではキリシタン大名が多く登場することとなった。

それらの大名の領内では宣教師の布教活動が許可され、
さらには拠点となる教会の建設も積極的に支援していった。

同時に
異教徒である仏教寺院は
キリシタン教徒による焼き討ちにあい、
仏教徒や神官は領内から次々に追放されていった。

「罪が償われるためには寺院を焼き始めなさい」的な事を、
イエズス会の司祭・ガスパル・コエリュは、
日本人信徒に指示した。

大名はキリシタンとして自ら洗礼を受けることによって、
軍事的、戦略的優位性が確保できたわけで、
他方イエズス会側では
領国全体に布教活動が自由に展開できることとなり
急速に領民にもキリシタン信者が広がっていった。

そうしたイエズス会の宣教事業自体には
多大な経費が必要であり、
商人からの取引の見返り、
あるいは寄付によってそれは賄われたわけで、
教会内には大名や有力な布教支援者に贈るための
西洋の珍しい品物や必要とされる弾薬が常に貯蔵されていた。

この南蛮貿易のシステムが確立してくると、
取引自体も大きく拡大していき
大量の武器弾薬が取引されるようになる。

大名といえども資金量には限界があり、
ポルトガル商人との決済にもやがて
人身売買が頻繁に行われるようになっていった。

それまでにも海外との取引では
こうした人身売買が密かに行われていたわけで、
西洋人の参入によってアジア地域全体にも
奴隷流通ルートとマーケットが形成されていった。

日本人だけでなく、
中国や朝鮮半島からもそうした奴隷は次々と買い取られ、
その多くは集積地マカオに一旦集められると、
そこから東南アジアやインドのゴアなどの植民地、
さらに本国のポルトガルなどのヨーロッパ市場に
海路で転売されていった。

当時はイエズス会の神父たちも奴隷を買い取り、
所有していたのも事実である。

織田信長はイタリア人のイエズス会宣教師から
黒人の奴隷を譲り受け、
弥助(ヤスケ)と名付けて武士の身分を与え
家来にしていたことはよく知られている。

戦国時代には他国を侵略すれば、
そこで大掛かりな人取り(生捕り)や
牛馬の略奪や田畑の作荒しが頻繁に行われていたし、
そうした戦争難民や捕虜を商う人買い(奴隷商人)が
そこここに横行していた。
特に九州では、
人身売買を仲介する商人が
各地のキリシタン大名のもとから捕虜などを買い集め、
ポルトガル人に売り渡し、
結果的には東南アジア市場に
多くの奴隷を供給していったことになる。

まさにこの時代、
九州の各港には海外から奴隷船が次々と来航していたわけだ。

キリスト教の教会が
このように奴隷取引を仲介することを
怪訝に思われるであろうが、
これはローマ教皇が承認した当たり前の商取引であったのだ。

当時の聖俗の支配権を持っていた
ローマ教皇アレキサンドル6世らが、
神学的に奴隷制度を正当化し容認したから
戦略的にイエズス会もこれに追随したわけである。

この取引によって莫大な利益が得られ、
教会の宣教事業を資金的に支えたわけである。

キリスト教徒からみれば
異民族や異教徒は家畜同然であり、
キリスト教を信仰しない者は
すべて駆逐されるべき邪悪な者たちであり、
奴隷として彼らの罪を労働で償うのは
当たり前のことであったわけで、
そこに何ら罪悪感は存在しなかった。

異教徒の人身売買、奴隷売買は
当時のキリスト教圏や他の植民地でも
ひろく容認されていたので、
日本にやって来たイエズス会も商人も
九州各地を足掛かりに
積極的にそうした商取引に参加していった。

戦国時代のそれまでの捕虜の扱いは、
多くの場合なで斬り(皆殺し)が通例であっただけに、
バテレンがわざわざ買い取ってくれるのであれば、
それこそ渡りに船であったろう。

このように奴隷を扱う商取引は
キリシタン大名にも都合よく受け取られ、
彼らとの奴隷売買は次第に拡大していくこととなった。

九州の島津、大友、有馬、天草、大村、
さらには高山、小西、黒田、細川といった諸大名も、
奴隷貿易には当然関与した。

日本人が同胞を家畜同様に人買いに売り渡し、
海外の白人の奴隷商人に
転売していった当時の南蛮貿易の様相が
このようにはっきりしてくるわけだ。

取引された奴隷の人数については諸説があるが、
日本人だけでも数万人から10万人は
その被害者となったのではないかと考えられる。

キリシタン大名に売られた捕虜が、
奴隷としてスペインや
遥か南米アルゼンチンまで転売されていったほどだし、
このような奴隷貿易なしには
大名といえども戦国時代を強かに
生き延びていくことは不可能であったということになるだろう。

キリシタン大名の武器装備に関して、
日本人奴隷貿易によって賄われた事は否定できないであろう。

戦となれば大量の硝薬が必要である。
島津軍が九州北部まで進攻できたのも
この新兵器鉄砲を縦横に駆使したからであり、
国崩しといわれた2門の巨大なフランキ砲を
大友宗麟がポルトガルから入手できたことも、
それこそ半端な奴隷売買の代価では到底賄えなかったであろう。

キリシタン大名とバテレンの繋がりは密接で、

九州の有馬氏や大村氏などのキリシタン大名が
寺社仏閣を破壊すると同時に、
僧侶にも迫害を加えたり教会へ莫大な寄進を行っていた。

1585年(天正13年)、
イエズス会のコエリョは豊臣秀吉に拝謁した際、
その席で九州平定を勧めている。

しかもその時、
九州の有力な大名である
大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、
秀吉に味方させると約束までするくらいであった。

外国との貿易の利を知っていた秀吉としても、
バテレンやキリシタン、日本人貿易を
黙ってみているだけではなかった。
そういった状況を黙って見ている天下人、秀吉ではなかった。

秀吉が九州各地を転戦するうちに、
夥しい寺社が焼かれて破壊されている状況を
実際に眼にするとともに、
奴隷取引の実態もすでに秀吉の耳には入ってきていた。

そうしたなかで秀吉の側近、施薬院全宗は、

「バテレンどもは、
日本人をキリスト教に引き入れ、
それだけでなく、
数百の男女を奴隷として買い取って、
手足に鉄の鎖をつけて船の底に押し込み、
それはまるで地獄絵図のようで、
牛馬も一緒に押し込んで、
その牛馬を生きたまま肉を喰いあさり、
それはそれは生きながらにして、
悪行の報いによって死後に生まれ変わる畜生の世界のようで、
また、
バテレンどものマネをする日本人も出てきて、
自分の子供や妻を奴隷として売り飛ばすさまです。
キリスト教が日本に広まれば、
日本は仏教からかけ離れた邪悪な国になってしまいます。
そうならないためにも、
バテレン共を日本から追放すべきでございます。」

みたいな事を秀吉に進言した。

秀吉は、
博多において
イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョに、
宣教師が関わる奴隷貿易について次々と詰問した。

「何故ポルトガル人は
こんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」

「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、
彼らの国に連行しているが、
これは許しがたい行為である。
従ってバテレンは
インドその他の遠隔地に売られて行った
すぺての日本人を日本に連れ戻せ」

秀吉はポルトガル人が関与した奴隷取引について、
事前に調べ上げていた。

「九州に来る西洋の商人たちが
日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。
いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。
それが無理なら、
日本に居る監禁されている日本人だけでも開放しろ。
そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」

これにコエリョが、平然と答えて言う。

「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。
自分たちの罪ではなく、
問題なのは、
外国船を迎える港の領主など、売る日本人がいるからであり、
厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。
彼らも厳罰にしてくれれば問題は解決する」
と。

コエリョの、この返答に、
秀吉が当然、納得するはずがない。

1587年6月18日(天正15年)、
秀吉のもとより、
キリシタンになるかどうかは自由である。
バテレンに強制させられるものではないという旨の、
朱印状が出される。

翌6月19日昼間、
博多湾でスペインの武装南蛮船に乗った秀吉は、
船上で大提督のような格好をしたコエリョに出迎えられ、
コエリョは、
船上に装備された大砲などの武器を見せ、
いかにもスペイン艦隊が
自分の指揮下にあるかのごとく
意図的に秀吉に対して
武力を誇示して威嚇したのであるが、
皮肉にも、これが武人としての秀吉の逆鱗に触れてしまった。

秀吉は、
この時点で
キリスト教の拡大の背後に
従来の一向宗や国人一揆のような
武力、軍事的な勢力への変貌の脅威をはっきりと確信した。

まさにキリシタンの衣の下に鎧を見たのである。

秀吉の決断は速かった。

6月19日の夜半、
激怒の秀吉は、
すぐさまガスパル・コエリョに5ヶ条の詰問状を出す。

第1条、
バテレンは何故、日本人にキリスト教を強いるのか。
(キリスト教を強制するな)
第2条、
何のために神社仏閣を破壊したのであるか。
(神社仏閣を破壊するな)
第3条、
何故、仏僧と喧嘩して迫害するのか。
(仏僧とケンカするな)
第4条、
バテレンはどうして民衆の大事な牛を食べるのか。
(牛を食べるな)
第5条、
日本人奴隷貿易は誰の許可を得て、やっとるのか。
(日本人奴隷貿易を止めろ)

それでもコエリョからは、
辻褄合わせの曖昧な答弁書が返って来ただけであった。

そして、
バテレン追放令を発布。

商船は日本に居てもいいけど、
キリスト教に洗脳させたり、
神社仏閣を破壊するバテレンどもは追放だから。
貿易はいいけど、日本人奴隷貿易はダメよ。

って内容だ。

さらに、
秀吉はイエズス会領となっていた
長崎・茂木・浦上の領地を取り上げ直轄地とした。

続いて、
1592年(天正20年)、
長崎のキリスト教会の破壊を命令することとなる。

前後して、
キリシタン大名の高山右近に、
キリスト教から抜けるように(棄教するように)
言うが、
高山右近は拒否る。

右近はこれをかたくなに拒み続け、
ついには改易となり大名の地位を失うこととなった。

慶長元年(1596年)には
長崎に着任したイエズス会司教
ペドロ・マルティンスがキリシタンの代表を集めて、
奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば
例外なく破門すると通達している。

秀吉は、
バテレン追放令は出したものの、貿易は続けたため、
奴隷貿易は暗躍し続けたようだ。

政権が徳川幕府に移っても、
懐柔されることなく、
キリシタンへの圧力は次第に強くなっていった。

1612年4月22日、
徳川秀忠は天領(幕府直轄地)内での
キリスト教禁止令を出していたが、
1614年2月1日(慶長18年12月23日)、
ついに幕府は厳しい「キリシタン禁教令」を全国に発令した。

このとき加賀前田家で一介の武将として留まっていた、
かってキリシタン大名の高山右近はこの禁教令を受けて、
人々の引きとめる中、
加賀を自ら退去し、
他の追放されるキリシタン信徒や
修道女の列に加わり共に移送されて長崎に到着した。

かつて高山右近がキリシタン大名として
奴隷貿易に直接関与したかどうかは不明であるが、
彼ら一族が長崎の港から奴隷船とまったく同じ航路を通って
マニラへ渡航したのは事実である。(1614年11月7日追放)

1636年(寛永13年)第4次鎖国令。
貿易に関係のないポルトガル人とその妻子
(日本人との混血児含む)
287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を長崎出島に移す。

1637年(寛永14年10月25日)、
島原半島の天草を中心にして
農民が一斉に蜂起し原城跡(長崎県南有馬町)に籠城した。
いわゆるこれが、
日本史上最大の一揆とされる天草・島原の乱である。

天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地であったが、
後に寺沢広高が入部し、
次代の堅高の時代まで
島原同様の圧政と熾烈なキリシタン弾圧が続いていた
土地であった。

島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で、
領民のキリスト教信仰も盛んであったが、
慶長19年(1614年)に有馬氏が転封され、
その後は松倉重政が入部していた。

重政も同様に厳しいキリシタン弾圧政策を行い、
年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し
残忍な拷問・処刑を繰り返していた。

過酷な領民への圧制とキリシタン弾圧が
反乱のきっかけであるが、
これに旧有馬氏の家臣や小西、加藤の遺臣らが中心になり
組織化されて次第に一揆が拡大していった。

幕府は、
1639年(寛永16年)の鎖国令により、
ポルトガル船の来航を一切禁止した。
それに先立ち幕府はポルトガルに代わり
オランダが必需品を提供できるかを確認している。

1640年(寛永17年)
マカオから通商再開依頼のためポルトガル船が来航したが、
このとき幕府は使者61名を処刑した。

1647年(正保4年)
ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。
徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。

江戸時代の、
いわゆる日本の鎖国体制が確立されるようになり、
日本人の海外渡航並びに入国が禁止され、
外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限する事によって、
日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。


ちなみにだが、
天正遣欧使節団による奴隷貿易の記録と
興味深い話がある。

天正10年(1582年)に
ローマに派遣された有名な天正遣欧少年使節団の一行も、
世界各地で多数の日本人が
奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して驚愕。
その会話が記録に残されている。

「我が旅行の先々で、
売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す
我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」

「全くだ。
実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へ
あんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、
憐憫の情を催さない者があろうか。」

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。
ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、
もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、
同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、
もともとなれど、
白人文明でありながら、
何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
インドやアフリカまで売っている』

といったやりとりなどが、
使節団の会話録に残されている。

この時期、
黄海、インド洋航路に加えて、
マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。

取引された奴隷の人数については諸説があるが、
日本人だけでも数万人から10万人は
その被害者となったのではないかという説がある。

秀吉のバテレン追放令が出された約3年後に、
少年使節は長崎に帰ってきたわけだが、
四人のうちただ一人、
千々石ミゲルはキリスト教から自ら離れ棄教した。

なぜミゲルはキリスト教を辞めてしまったのか。

先に記載した通り、
少年使節団は、
世界で様々なものを見てきた。
その中で、
同胞の日本人が
奴隷として売買されている実態も見てきたのである。

白人以外の異教徒を野蛮人、
あるいは
動物同様とみなす、
当時のキリスト教を受け入れる事ができなかったのではないか。

おそらく少年使節には、
できるだけキリスト世界のいい面だけを見せるように
配慮されていただろうが、
皮肉にもその航海の途中で
たびたび目にしたものは痛ましい日本人の奴隷の姿であった。

異民族、異教徒というだけで、
侵略、植民地、奴隷などにされてしまうのだ。

少年使節の彼らが、
この事実にまったく気付かぬはずはあるまい。

少年使節の4人のうち3人はキリスト教に順応し、
ミゲル一人だけが、
つまり、キリスト教に洗脳されなかったのではないか。

イエズス会の教義に立てば、
たとえ同胞の日本人であろうと、
異教徒であれば彼らが奴隷の境涯に落とされようと、
異端者が火刑に処せられようと
それは自らの罪を償うのであって
何ら同情することはないということに
解釈されるはずのものである。
そこには何の批判も罪悪感も持たれなかった。

だから奴隷なら、
いくらでも家畜のように売買できるわけである。

キリスト教に夢見た純朴少年であったろうミゲルは、
その教えにギャップがあったのであろう。

もともと少年使節団は、
キリスト教に改宗するための施設団では、ない。
そんな使節団を日本の為政者が積極的に出す訳が、ない。
とはいえ、
天正遣欧少年使節は
九州のキリシタン大名、
大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として
ローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である事から、
キリスト教に好意的であったのは間違いない。

ただ、
少年使節が帰国したのは1590年。
その時にはバテレン追放令が発布されており、
さらにミゲルが棄教。

大村藩『新撰士系録』には、
後から、
少年使節団の目的をキリスト教を探るためと付け足された。

少年使節団を発案したヴァリャリーノは、
キリスト教布教のためと自身の手紙の中で綴っている。

キリシタン大名が
どこまでバテレンに加担していたのかは定かでないが、
意図的であれ、なかれ、
ひと役買っていた事は事実である。

話は戻すが、
キリスト教を辞めたミゲルは、命を狙われる事になる。
実際にミゲルは命を狙われ重傷を負い、
奇跡的に助かっている。

キリスト教徒が世界で日本人奴隷貿易をしているなどを、
日本で広められたら、
キリシタン側にとって、これほど都合が悪いものはない。

ミゲルが帰国する頃には、
日本国内でのキリスト教の立場は悪くなっていた一方で、
キリシタンも存在していた。

そういった状況下での、ミゲルの棄教だ。

大村や有馬では、
宣教師の要求があって領民から少年少女を多数徴集し、
ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に送ろうとした
という話もある。

ミゲル自身は、
そうした日本人の奴隷を
実際に現地で目にしてもいるわけだから、
ここでは否定の仕様があるまい。

ミゲルが
もっとも嫌悪感を持っていただろう人身売買も奴隷貿易も、
九州で限ってみても、
彼の帰国後も依然同様にそれはまったく廃れることはなかった。

ミゲルがこうした惨状を、
為政者秀吉側に訴える事も否定できない。

いくら秀吉が貿易を享受しているからといって、
キリシタン側からすれば、
ミゲルがアキレス腱であることに違いはなかっただろう。

その後、
日本は鎖国体制に入り、
キリスト教は弾圧されて、
奴隷貿易はおそらく消滅し、
260年近くも平和を享受する事が出来た。

一般的に、
日本の鎖国は否定的に教えられて、
日本人は罪もないキリスト教信者を迫害してきたと、
学校で教わっているだろう。

しかし、
真実を学んでほしい。

何故か日本史の教科書には
ポルトガル人が堺や博多に来航して
南蛮貿易が盛んになりました、とだけ書いてあるだろうが、
そんな平易な表現では収まるのは相応ではなく、
日本人は商品として世界に売られていきました。
と何故、教えない?

奴隷貿易はアフリカであっただけのものじゃない。
世界的に行われていて、
このニッポンでも奴隷貿易は存在していたのだ。

戦前はどうか知らんが、
とかく今の日本では、
自虐的な歴史教育ばかりされている。

日本において、
キリシタンサイドは、
日本人奴隷貿易を活発にし、
神社仏閣を破壊し、
日本人をキリスト教信者に洗脳させ、
日本を植民地にしようとしていたのにもかかわらず、
日本の教科書では、
やれ、キリシタンは貿易しに来ましたとか、
そしたらキリシタンは日本政府に迫害されましたとか、
んな事を記載している。
肝心の因果関係を記載していない。

これらの事は日本人が知っておくべき史実の一つである。


バテレン…
室町時代末、
キリスト教伝道のために渡来したカトリックの宣教師のこと。

(参考:インターネットサイトなど)

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