俺学

・スマラン事件

(ウィキペディア等より参照)

スマラン事件とは、

1944年、
日本軍占領中のインドネシアで
日本軍人が
現地オランダ人女性を
慰安婦として強制連行した事件。

1944年2月、
南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、

慰安所には自由意志の者だけを雇うようにというガイドラインを無視し、

オランダ人女性35人を

民間人抑留所から

スマランにあった慰安所に

強制的に集め、売春させた。


その後、
陸軍省から捕虜調査に来た小田島董大佐に

慰安婦にされたオランダ人女性の父親が訴え、

同大佐の勧告により、

事件から2カ月後の、
1944年4月末に
慰安所は閉鎖された。


しかしながら、
日本軍は、
当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。


終戦後の1948年、
バタビア臨時軍法会議で
BC級戦犯として11人が有罪とされた。

有罪者は、
軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、
責任者である陸軍少佐には死刑が宣告された。


なお、
第2次大戦中の日本とオランダ間の賠償については、

日本政府の主張に従えば、

『サンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書により
法的には解決され、条約には請求権放棄条項が含まれている。

また、
日本政府に対して法的責任を認めて
一人当たり約2万ドルの補償を求める
対日道義的債務基金(JES)運動(1990年結成)に対し、
2001年までに日本は総額2億5500万円を支払い「償い事業」が終了している。』





以下、ゴー宣ネット道場より抜粋

第45回 スマラン慰安所「白馬事件」(その1)

1944年(昭和19)3月1日、
インドネシア・ジャワ島の都市・スマランに
「将校倶楽部」
「スマラン倶楽部」
「日の丸倶楽部」
「青雲荘」の4軒の慰安所が開設された。

だがその慰安婦の中には、
売春をすることを知らされないまま
収容所から連れて来られたオランダ人女性が含まれていた。

この4軒の慰安所は
この地域の軍政を担当する第16軍司令部から閉鎖命令を受け、
約2ヶ月後の4月末までに全部閉鎖された。


第16軍軍政監部の鈴木博史大尉の証言によれば、

「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、
山本軍政監(兼第16軍参謀長)へ伝えると、
山本は“まずい、すぐ止めさせろ”と怒り、
翌日に閉鎖命令が出た……
のちに彼女たちを集め申し訳のないことだったと謝罪した」
ということである。

つまり、
これはあくまでも出先部隊が起こした不祥事であり、
司令部は決してそのようなことを許してはいなかった
ということには注目しておかなければならない。

 
戦後、スマラン慰安所の件は女性たちの告発により、
バタビア(現・ジャカルタ)における
オランダ軍事法廷のBC級戦犯裁判にかけられた。

被告は慰安所設置に関わった軍人や業者など12人で、
うち11名が有罪で1名が死刑、
残りは懲役2年から20年の有期刑だった。

ただ一人死刑となった岡田慶治少佐は
慰安所設置の実務担当者で、
慰安所設置を命じた上官の大久保朝雄大佐が自決、
池田省三大佐が発狂したため、
一人で監督責任を負わされた形になってしまった。


岡田少佐は獄中手記で次のように書いている。

「将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……
その彼女たちが告訴している。
それも嘘八百を並べて……
時勢が変ったので我々に協力していたことになっては
彼女達の立場がないのかと想像……
起訴状を見ると首謀者にされている……
「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……
敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか



第46回 スマラン慰安所「白馬事件」(その2)

インドネシア・スマランの慰安所におけるオランダ人女性への強制売春事件は、
後に「白馬(しろうま)事件」と呼ばれた。

白人を馬のように使った事件という意味で、
刑務所内で言われるようになったという。

白馬事件を裁いたオランダ軍事法廷のBC級戦犯裁判で
ただ一人死刑となった岡田慶治少佐は、
慰安婦は希望者だけだったと無罪を主張していた。

 
国内外49カ所で行なわれたBC級戦犯裁判は、
審理は杜撰そのもの、まともな弁護人もつかないことも多かった

暗黒裁判で、その実態は裁判の名を借りた敗戦国への集団リンチに等しかった。

特にオランダ軍事法廷は酷かった。

350年もインドネシアを植民統治していたオランダの軍は
緒戦で日本軍にたった9日間で敗れた。
これはオランダ軍にとって、とてつもない屈辱だった。
白人が黄色人種に敗れたのである!

オランダ軍はその後4年間捕虜生活を強いられ、
自力で逆襲もできないまま連合国の勝利で勝ち組に滑り込んだ。

有色人種の支配下に置かれた屈辱、自力で勝てなかった鬱憤が溜まっていた。

そして、日本の敗戦後、再びインドネシアを支配できると思ったら、
すでに日本軍がインドネシアの民族意識を育て、
インドネシアの国民軍まで作っていた。

オランダはインドネシア人に独立戦争を起こされ、
思わぬ苦戦を強いられていた。

そんな状況の真っただ中で、
オランダ軍は日本への復讐心をBC級戦犯裁判にぶつけたのだ。


かくして、日本軍とは9日間しか戦っておらず、
戦勝国の中でも最も被害が少なかったはずのオランダが最も残酷な報復を行ない、
死刑となった日本軍将兵は戦勝国中最も多い236人に上った。

そのような事情から、
スマラン慰安所の事件に関する裁判も、
公正な審理が尽くされたとは到底言えない。

慰安婦集めに重要な役割を果たしたオランダ人のスマラン州長官や役人は
逮捕もされず、証言もしていない。

有罪判決の決め手となったのは女性たちの証言のみで、
その点では朝鮮人慰安婦をめぐるケースとほとんど大差ないと言っていい。

スマランの慰安所は日本軍司令部の命令で閉鎖されているので、
違法な慰安婦募集があったことはまず間違いないが、
だからといってオランダ軍事法廷の判決書も信頼できる資料とは言い難い。

特に死刑となった岡田少佐については、情状の余地が十分あると思われる。



 

第47回 スマラン慰安所「白馬事件」(その3)

朝日新聞は1992年(平成4)7月21日夕刊1面トップに
「オランダ女性も慰安婦に」という記事を載せた。

朝日新聞はこの年1月の慰安婦問題謀略記事でまんまと韓国を大炎上させ、
宮沢首相(当時)を謝罪させるという赫々たる戦果を挙げており、

次はオランダに火をつけようと企んだのだろう。

記事はバタビアの軍事法廷を「オランダ・ハーグの軍事法廷」と間違え、
被告12人のうち11人が有罪判決だったのを「12人に有罪判決」と間違え、
しかも後日出した訂正記事では「9人」とさらに間違えるという杜撰さだった。

この時点から44年も前の、
信頼できる資料とは言い難いBC級戦犯裁判の記録を持ち出し、
大々的な記事にして旧日本軍を断罪しているのだ。

しかも、
日本とオランダの戦時賠償問題は
サンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書で
法的に解決していることも無視の無法行為である。

この記事をきっかけに
オランダ人元慰安婦も名乗りを挙げて証言を始め、
東京地裁に提訴する者も現われた。

そしてオランダ政府は実態調査に乗り出すことになったのだった。



 

第49回 スマラン慰安所「白馬事件」(その5)

朝日新聞の火つけ記事がきっかけで、
オランダ政府も慰安婦の実態調査に乗り出すこととなり、
1994年に報告書をまとめた。

その報告書は
日本や韓国の「実態調査」とは異なり、
政治的目的を離れて事実を冷静に見極めようとしたものだった。

例えば
日本軍がインドネシアに慰安所を開設するまでの経緯はこう報告されている。

当地の軍政責任者は、
慰安所の設置には免許が必要だと決定した。

免許は
ある一定の条件、
例えば
定期的な性病健診とか
支払いについての条件などが満たされてはじめて得られるとされ、
さらに、
そこで働く女性たちが自主的に働いているということも前提条件であった。

規則によると、
そこで働く女性達が自発的に性的サービスを提供します
という趣旨の陳述書に署名した場合にのみ、免許が交付された。


「軍の関与」は
慰安婦の衛生・待遇面などにおける「善意の関与」であり、
「女性たちが自主的に働いているということ」が
「前提条件」だったと明記されているのである。

そして報告書の結論はこうなっている。


上記から見て
売春に関する女性の大多数は強制売春の被害者ではないといえる。(中略)

現在入手できる文書によれば
オランダ領東インド各地の日本軍慰安所で働いていた
200から300人のヨーロッパ人女性のうち約65人が売春を強制されたということは
絶対に確実であると結論づけることができる。


この報告書に日本の「謝罪派」は相当に不満だったらしく、
「強制の認定が甘い」などとケチをつけていた。

彼らは「日本は絶対悪」の結論以外は死んでも認めたくないのである。


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