社会、伝統、文化、外国人
・相撲の文化伝統を教育する
学校、社会、相撲部屋等で、
きちんと相撲の文化、伝統、歴史を教育するべきだ。
八百長に関しては、
露骨で酷いのはダメだと思うけども、
相撲は
完全なスポーツではないから、
多少の曖昧さがあっても俺は良いと思う。
とはいえ、
八百長するにしても、
最低限の八百長のマナーがあると思うんだよ。
そのマナーに対する日本人のモラルが欠如してきている事が
問題なんだなと俺は思うんだわな。
節度というんですかね。
人情的なとこ含めてね。
(以下、知りたがりで、玉木正之先生の解説を微調整してまとめたもの)
相撲の起源は、
古代において、
日本書紀によると、
総合格闘技のようなものであった。
(ノミノスクネvsタイマノケハヤ)
奈良時代においては、
相撲は
五穀豊穣を占ったり、
神仏、天皇・貴族に見せるものであった。
室町においては、
勧進相撲という神社・仏事修造の寄金集めとしてあった。
大相撲は、
格闘技の要素、
祈願等の要素、
金集めの要素、
つまり、
神事、
スポーツ、
興行の三位一体のバランスがとれてこそ
相撲道→国技であるのだ。
しかし、
昨今は、
力士の品格低下、
伝統文化が欠落。
朝青龍が
土俵上でガッツポーズをしていたが、
それが何故いけないかというと、
そもそも、
相撲というのは、
手をグーにしてはいけない。
というのは、
手の中に武器とか何も入ってないですよ。
という事を見せるためにある。
だから、
相撲の所作は
基本すべて、手を開いている。
手をゲンコツにしていいのは、
仕切りの時だけ、
あの時は、
手が地面についちゃいけないから。
ゲンコツは
手と認識しない。
相撲の試合中は
ゲンコツではなく、手を開く。
だから、張り手。
そういう説明をきちんとする必要がある。
昔からそうなんだでは、
今の時代人には伝わりにくくなっている。
まして外国人ならなおさら。
戦後の日本教育が
ほんわかしていたので、
言葉できちんと説明しないと
わからない子が増えてくる傾向があると思う。
立ち合いも、
行司がはっけいよい残ったで、
試合が始まるのではなく、
力士同士が気が合ったら始める。
スポーツとは感覚が違う。
テレビ中継が始まる前までは、
気が合うまで、
ずっと試合が始まらなかった。
そういうような伝統を我々は知らない。
八百長についてだが、
人情相撲、情け相撲というものがある。
落語「佐野山」では、
病気の母親の看病をしている力士、佐野山が、相撲に勝てないでいた。
相撲で勝てず、金欠になってしまった。
その苦しい事情を知った横綱の谷風が
あえて勇み足で負けて、
佐野山を勝たせた。
谷風だけが知って、
佐野山は知らなかった。
片方だけが
知っている事を盆中(ぼんなか)と言う。
他に、
7勝7敗の時に、
勝ち越しにするために、
阿吽の呼吸で、
8勝7敗にしようという機微が働くものもある。
これを出来山という。
こういったものはたくさんあった。
日本人の美徳である義理と人情の面があり、
グレーゾーンとして、
ある程度、黙認もされてきた。
最近言われる八百長というのは、
システマティックなものになってきている。
ケータイを使ったり、
勝ち星に値段をつけて
相場が形成されてしまっている。
こういったものは、
日本人の美徳とは
かけ離れたものとなってしまっている。
力士は相撲道を知らず、
親方も相撲道を教えられなくなってきている、とのことだ。
力士作って、
魂入れずという状況になってきている。
現在は、
興行重視で、
神事を軽視している。
今、騒がれている八百長問題ってのは、
簡潔に言えば、
許容できる範囲のズルと許容できない範囲のズルがあって、
許容できない範囲のズルが発覚して問題となっている。
つまり、
神事を重視し、
相撲道をきちんと教え、
日本の国技としての美徳ある相撲道に励む必要がある。
神事、スポーツ、興行
三位一体のバランスの取れた相撲道を形成するべきだ。
知りたがりにおいて、
先生は、
相撲を宗教法人化するのも手だと、言っていた。
相撲をプロスポーツ化するのは、
相撲はオリンピック種目でもないし歴史的経緯からも反対で、
プロレス化にするのも、歴史的経緯からしても反対だとの事だ。
相撲という格闘技団体は興行的には大成功している。
700人近くの力士(格闘家)が
ほぼ職業として成立している格闘技団体は他に無い。
相撲は
髷を結っているだけで、神事みたいなものだ。
断髪令があっても力士だけは切らなかった。
その事だけでも
充分、
神事的であるが、
日本国民はあまりその事を認識していない。