医療、社会保障

  ・安楽死科を作る

頑張って生きてきた先に、
死ぬに至るまでの絶望的な困苦
という選択しかなかったらどうでしょう。

安楽死も一つの選択だと思います。

死期が近づいて、そろそろ死んでしまう。

そんな時、
長期にわたって延命させられて、病室で苦しみながら死ぬよりも、
死ぬ日取りを決めて、
盛大にパーティーをしてその日に死んで別れを惜しむようなほうが、

俺がその立場だったら、そうしてくれた方がいい。

そうでない人もいるだろうから、
そういう人は延命治療をすればいい。

そういうのをプロデュースする科があってもいいと思う。

そういうプロデュースするような安楽死科なら、
世界からも多分、安楽死科を訪れる人がいると思う。


以下は、
書籍「日本の死に時」から
自分の感性に基づいて、
一部抜粋したものや要旨を載せました。

なので、
多少、俺流に微調整したところはあるかとは思いますので、
以下に書かれている事が著者の本旨と逸脱するところが、
もしかするとあるかもしれませんので、
著者の本旨を正確にお知りになりたい方は
ご自分で「日本の死に時」をお読みくださいませ。

では、どうぞ~。

 

長生きするとどんな事が起こるか。

・排泄機能の低下 間に合わずに垂れ流し

・筋力の低下 寝返りもできない

・歩行困難 普通に歩く事の大変さ。
段差には注意するが、逆にバリアフリーにして転んだなんてこともある。

・関節の痛み 関節も長年使うとひずみや磨耗する 関節を動かすだけで痛い

・うつ病 衰えや疎外感などから

・不眠 眠るのにも体力がいる。

・呼吸困難

・めまい、耳鳴り、頭痛

・嗅覚、味覚障害

・麻痺、認知症

今は簡単に死ねない時代
万が一にも生きる見込みがあるなら医者もベストを尽くさざるを得ない。
死なせない事がよい事がどうか、医師も悩んでいる。

昔はものが食べられなくなれば、自然に静かに死んでいた。

今は鼻からチューブを入れたり、
胃ろうを作ったりして様々な栄養剤を与えたり、
消化吸収ができなければ、点滴や高カロリー輸液で補う。

食事だけでなく、
呼吸も、
循環も、
排泄も、
あらゆる生理機能が人工的に補助されるようになって、

人間はなかなか死ねないようになってしまった。

命はどんなふうに延ばすかが大事なのに、

命をただ延ばすことを良しと、
伸ばす手立てだけが飛躍的に伸びてしまった。

早死は減ったけど、
長生きで苦しむ危険性が高まっている。

一度、胃ろうや人工呼吸をつけると簡単にはずせない。

なぜなら、外すと死に直結するからだ。 

苦しくなってから気づいても、どうしようもなくなってしまうのだ。

また、
長生きすると、
虐待される危険性も潜んでいる。

暴力を振るったり、ベッドに縛り付けたりする身体的虐待

言葉で傷つけたり、無視したりする心理的虐待

年金を取り上げたり、不動産を勝手に処分する経済的虐待

食事を与えなかったり、おむつを替えない放任による虐待

などがある。


背景としては、

介護のストレス、

人間関係の不和、

自然の成り行きでいつのまにか虐待してしまったり、とかだ。

長生きする事で、
身体が弱り、
生きていても仕方がない存在なのではないかと思い、
必要されていないと、自殺する危険性もある。

息子が引きこもり等、手が掛かる方が、逆に頑張らないとと、元気だったりする。

高齢者がオムツをする事に
マイナスのイメージを植えつけているマスコミや医療関係者がいるが、
それは偏見で、プラス面もいっぱいあるし、
オムツ=赤ん坊がするもの、
大人として恥ずかしいというイメージを煽るのはよくない。


グループホームの現状

グループホームとは、
数人から十数人の認知症の老人を、
共同生活の形で介護する介護保険サービスの施設。

認知症の老人は、
夜中に5分おきにコールボタンを押したり、
財布を盗まれたと騒いだり、
便器で顔を洗ったり、
冷蔵庫に汚れたオムツを入れたり、
ところかまず小便を撒き散らしたり、
何もしてないのに「泥棒、人殺し、叩いた」と叫ばれ、
つねられ引っ掻かれたり、
同じ事を何十回も聞かされ、
唾や吐瀉物を浴びせられたりしても、
介護する側は笑顔で我慢しなければいけないのだ。

相手が認知症で致し方ないとしても、
介護する側は精神的、肉体的に忍耐の限界にまで追い詰められる。

それがグループホームの現状なのだ。
そういった老人の集まりなので、老人同士のトラブルもある。

親が認知症になったらグループホームへ入れさえすれば、
親は幸せだと思っているとしたら大間違いだ。
全てがそうではないとは思うけど。

また、
そういった施設は、
病院と提携している事もあるので、
患者の事よりも収益を重視しがちになるというところもある。
(介護企業と医療法人との資本提携)

また、
高齢化社会が急速に進んだ日本において、
介護という大きな市場を狙って、
多くの企業が介護ビジネスに参入したが、
大半が福祉にも医療にも縁のない異業種からの参入なのだ。

そういう企業は、
耳障りの良い言葉、快適さや美しい理念を掲げるが、
根本にあるのは、厳然たる営利追求があると忘れてはならない。

まぁビジネスとしては当然でしょうけど。
まぁ、そういうことなんです。
福祉というよりも収益。


敬老精神の衰退

年長者の方が実際に優れているという前提が崩れてしまった。

老人にも原因があって、
アンチエイジングなど、
若者に勝てるはずのない分野で優位性に立とうとし、
若者からすれば老人が老いを拒絶する行動は、愚かしく見える。

昔の老人には、
若者では持ち得ない経験に裏打ちされた立派な風格があったのだ。

若作りしても若者と比べれば美しくなく、
介護問題もあって負担になるし、
そういった今の老人を敬えという方が難しい。

老いや死に対し、
騒ぎたてる老人もいる中で、
毅然とした態度でそれを受け入れて、
つらい病気でも精神力で周囲には笑顔を振舞う、
立派な老人もいるのだ。


年寄りに、
年をとって、何かいいことがありますかと聞くと、
たいていの老人は何もないと答える。
身体は弱るし、あちこち痛いし、いいことなんてちっともないと答える。

昔は長老という言葉があって、
老人は若者にない知恵を持っているというのが相場だった。

いわゆる見識が高いということでしょう。

何もインテリでなくとも、
まっとうな経験を積んだ人は賢かった。

無用のことで騒がず、心を乱すこともない。

無理はせず、憂いても仕方がないことには平然としていた。

それが老人の知恵だった。

そういう卓越した老人になら、若者だって自然と尊敬の念を抱くでしょう。

身体能力で劣っていても、
精神面でははるかに優れているのだから。

老人は弱るからこそ、深い知恵をつけられる。

失敗し、挫折し、何度もあきらめを経験するからこそ、新しい地平が見える。

若さや元気ばかりにすがりついては、
知恵や満足から遠ざかるばかり。

1990年代後半から、
PPK(ピンピンコロリ)という言葉が広がった。

健康長寿の県として知られる長野県で生まれた。

ピンピン元気に老いて、寝つかずにコロリと死ぬという、
理想の老人ライフを目指す運動だ。


1991年、
東海大学医学部付属病院の医師が末期がん患者に塩化カリウムを注射して、
はじめて殺人罪に問われました。

翌年、
殺人罪に問われ、
懲役2年、執行猶予2年の有罪判決を出した横浜地裁は
次のような安楽死の用件を出しました。


1、患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる。

2、死が避けられず、死期が迫っている。

3、肉体的苦痛を除去・緩和する方法を尽くし、ほかに代替手段がない。

4、生命の短縮を承諾する患者の明示的意思表示がある。


この要件は、
判決の中で積極的な安楽死を許容するためのものとされていましたが、

先の司法関係者は、

「(この要件は)将来の参考にということであって、
要件が満たされれば罪にならないという意味ではない」

とコメントしている。

つまり、
日本ではまだ、
積極的な安楽死も
消極的な安楽死も
正式には認められてはいないということだ。

患者を死に至らしめる方法としては、
人工呼吸器を外し、
塩化カリウムの注射のほか、
筋弛緩剤やインシュリンの致死量投与などがある。

以上のような方法を積極的な安楽死。

消極的な安楽死としての方法は、
大量の鎮静剤の投与や、
強心剤の中止、
透析や血漿(けっしょう)交換や人工呼吸の見送り、
栄養の漸減などです。

オランダは世界ではじめて安楽死を法制化し、2001年に試行した。

その20年ほど前からオランダでは安楽死が社会的に容認されていた。

実際、法施行の時点で、安楽死は全死亡者の2,5%~3%を占めていた。

オランダは個人の意思や自己責任を尊重する国民性を重視した。

人間の安楽死よりも前に、ペットの安楽死が広く受け入れられていた。

ベルギーも2002年に安楽死を合法化し、
オーストラリアの北部準州、
アメリカのオレゴン州などでも、州議会で法案を可決しています。

スイスでは、医師による末期患者の自殺幇助が法的に認められています。





画像のみ参考として、
皇紀2674年(西暦2014年)11月3日放送
モーニングバード!「安楽死宣言」の女性 予告の11月1日到来 より追加



何も安楽死の法制化は「安楽死しなきゃいけない」と言うものではなく、
選択肢として、
安楽死をしたい人にできるようにするというもの。

「死ぬな」って言うことは、
ときに「死ね」と言う以上に残酷である事は少なくない。

だが、安楽死を容認したら、悪用される可能性もある。

遺産相続に絡む場合や、
人間関係のもつれ、
過重な介護負担から、
悪意のある安楽死や安易な安楽死が行われないともかぎりません。

そういう危険に対しては、
安楽死の厳格な規制と、
罰則の強化で対応すればいいと思います。

悪用の可能性があるから認めないというのでは、
いつまでたっても多くの人が苦しい死を免れません。

死をサポートする医療へ
昔はみんな家で安楽死をしていた。

近代医療が発達する前は、
たいていの人が自分の家であまり苦しまずに死んでいました。

自然に任せておけば、人間はそれほど苦しまずに死にます。

それは動物の死を見ても明らかなことです。

死が苦しくなるのは、
人間があれこれ手を加えるからです。

放っておけば、
そんなに苦しむ前に力尽きて死にます。

近代医療が発達する前、
江戸時代とか明治のはじめごろでも、
一般の人は特別な検査も治療も受けずに、
家で静かに亡くなっていました。

むかしに比べれば、
治る病気は増えました。

しかし、
こと死に関しては、
近代医療とて無力です。

治療を受ければ、死を遅らせたり、
楽にできるかもしれないと思うのは
幻想です。

いや、
むしろ治療することで、
死が苦しくなっているケースのほうが多い。

身体は死のうとしているのに、無理やり引き留めるのですから。

患者本人は自宅で安楽死を迎えたくても、
いざ症状が悪化して患者本人の気持ちが弱くなった時に、
家族や親戚が病院で入院した方がいい、なんて強く言って押し切られたら、
入院する事になります。

そういった状況で病院に担ぎ込まれ、
いったん、病院で治療を受けて、
患者の意識が確かになった時に、
家に帰りたいと言っても、
生命維持装置的な事はやめてくれと言っても、
なかなか、それが受け入れられません。

なぜなら、
それを受け入れてしまえば、
即、死に繋がるからです。

なので、
死ぬに死ねない状態で過ごす事になってしまいます。

また、
患者に近い家族と、遠い親戚との認識の違いもあります。

統計によって異なるが、
終末期医療費が全老人医療費の20%を占めるとか、
国民一人が一生に使う医療費の約半分が、
死の直前二ヶ月に使われるという報告があります。

患者は助かる見込みがなくても治療を求めますし、
医師は治療すればするだけ儲かる、結果、医療費が膨大になる。

延命治療をやめれば、医療費も安くなります。

患者の側も自己負担が少なくて済むし、国民の医療費も削減されます。

困るのは、
無駄な治療で収入を得ている医師だけでしょう。

安楽死というのは、
患者を見捨てることではありません。

苦しむ時間を短くするという意味です。

薬や延命治療で死を長引かせるのは残酷なことです。

死は自然な成り行きなのですから、どこまでも抵抗するのは不毛です。

癌による強い痛みや苦しみを和らげるモルヒネがあるが、
日本のモルヒネ使用量は多くない。

イギリスの約8分の1、
アメリカやオーストラリアの約6分の1といわれている。

日本で使われない理由は、
モルヒネは麻薬の一つで、麻薬は怖いというイメージなのかもしれません。

ガンになったら、
そのままにしておけば、
普通は、1年持つ事は難しく、2年は無理でしょう。

今、我々が感じている死の恐怖は、
死から遠いがゆえのものだというのです。

ほんとうに死が近づくと、
恐怖心も徐々に弱り、死もそれほど怖くなくなるというわけです。

富士正晴氏は、
明くる日に飲む約束をして、
その日の晩に本人も気づかないうちに死んでしまう。

なんともうらやましい最期でしょう。
まさに達意の死です。


病院へ行かないという選択

現在、日本の健康寿命は、
男性が72,3歳、女性が77,7歳。

平均寿命は、
男性が78,4歳、女性が85,3歳です。
(「世界保健報告2003年」)

その差すなわち、
男性で6,1年、女性で7,6年が、介護を要する期間となります。

平均寿命と健康寿命の差を短くすれば、介護の需要は減るわけです。

医療のおかげで平均寿命は延びた。

しかし、
医療は健康寿命は延ばしません。

健康な人は病院へは行かない。

病院に行くから平均寿命が延びる。

結果、介護や延命治療をする事になる。

病院に行かないメリットとして、

1に、
濃厚医療による不自然な死を避けられること。

2に、
つらい検査や治療を受けなくてすむこと。

3に、
よけいな病気を見つけられる心配がありません。

4に、
時間が無駄になりません。

5に、
お金が無駄になりません。

6に、
精神的な負担が減ります。

病院で治る病気はもちろん治してもらえばいい。

けれど治らない病気の治療に、
いつまでも拘泥するのはよくありません。

自然の寿命を大切にすること。

長寿には反対ですが、天寿には賛成です。

現代は「今」が苦しいので、
老いてから楽しむとか、
あとで生き甲斐を見つけるとか、喜びを先送りする傾向があります。

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